水盤

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 遥か西の国でのこと、国境に近い田舎の小さな村を、一人の男が狂乱のさまで馬を駆り、そのまま走り抜けた。その男の容貌はというと、全身ほこりと汚れにまみれて黒く、ぼろと荷物と黒い馬体が同じ色となって、何が荷物か、どこがぼろだかそれさえわからぬ有り様。顔はかぶっているフードに隠されて見えなかったが、そこからのぞく目はどこか狂気じみた光を帯び、眼光強く、それを見る者をどきりとさせた。大きく立派な黒馬に乗り、怒りにまかせてわめきつつ、わずかもとどまらず村を走り去ったという。何をわめいていたかはっきりとは知る者もいないが、道端で野良仕事をさぼっていた少年によると、それは次のようなものだったらしい。 「ああ、この一刻一刻が俺の愚かさの報いだ。俺はなんと愚かだったことか。忘れてしまう、見つけださねばならないというのに。顔立ちも髪の色合いもあのまなざしも、今にも忘れてしまいそうだ。これこそが俺の愚かさへの懲罰なのだ。だがそれでも見つけださねば」  少年が興奮しつつ伝えたところを信じるならば、男はこのようなことを繰り返しわめきつつ、東の国境へと風のように走り去っていったのであった。  さてこの不吉な走り手が瞬く間にこの小さな村を走り抜け、いなくなっていたことは言うまでもない。それほどこの村は小さかったが、残された不安は大きかった。折しも先日、この国を激しい地震が襲ったばかりで、都を含む各地で相当の被害があったという話が伝えられ、ただでさえ戦乱の噂やこの世の終わりの噂が絶えなかった時である。男が走り抜けた後には、間をおかずに根も葉もない流言が飛び交い、早くも荷物をまとめて国を出ようとする者、はやり病を恐れて山へ逃げる者などが出始めて、村はちょっとした混乱に陥った。  この折も折、またもこの村に来訪者があった。といってもこちらは日ごとの稼ぎを路銀に旅を続ける詩人であって、都から三日の旅を続けて、この村に宿を求めてきたところであった。この詩人は、おびえきった村人たちから狂人めいた先客の詳細を耳にすると、都で彼が聞き及んだ物語を語りだした。それは小さな水面のさざ波を死ぬほど恐れた男の物語、それはこんな物語であった。   事の起こりは二十年ほどもさかのぼった昔、この国に一人の王子が生まれたことにあった。最初の王子の誕生とあって、国の全土が祝い、喜びあったことは言うまでもないが、都の騒ぎはまた格別のものであった。あらゆる道にテーブルと椅子が運び出され、祝い歌う人々で都はあふれんばかりであった。お互い知らぬ者同士までも乾杯を続け、その騒ぎは果てをしらなかった。  王宮にもさまざまな人々があふれていた。少しでも名のある者は喜んで王宮に迎えられ、王宮もまた祝杯と笑顔のるつぼであった。国王は非常な賢君として名を馳せていたので、近隣の国々はこぞって高貴な身分の使者をよこし、次から次へと、流麗な祝いの口上と立派な贈り物を数多く捧げた。  だがそのさまざまな贈り物、目もくらまんばかりの金銀や財宝の中にあって、最も参列者の目を引いたのは、一見すれば最も地味な贈り物であったやもしれぬ。それは、一つの岩から削りだされた水盤であった。一抱えほどの大きさの盆のようなもので、その円い縁には銀の枠がはめ込まれ、そこに美しい浮き彫りや魔法の文字が刻まれていた。  この水盤を献上したのは、誰も名を知らぬ、ある旅の魔術師であった。彼は言った。これは魔法の水盤でございます。私も詳しいいわれは知りませぬ。ただ、遥か北の果てにある洞窟に凍りついていた物だとか聞いております。それをどうやってだか手に入れた男が、金に困って私に売ったものでございます。そうひとまず言い終えると、彼はそれをそっと台の上に置いて、水差しから水を注いだ。誰もが驚いたことに、水盤は、水面に波紋が広がるたびに異なる物を映し出した。水を張られた水盤は、まず、広大な砂漠の青い青い空にかかる虹を映し出した。しかしひとつ波紋が過ぎた後には、どこかの国の宝物庫に眠る、美しく装飾された五弦の楽器が見えた。誰かが水盤をそっと揺らすと、次には、異国風の街角にたたずむ黒髪の少年の泥だらけの顔を映し出した。旅の魔術師は続けて言った。このように、水面に波が立つたびに新しいものを映し出す魔法の水盤でございます。旅暮らしの私には不要の物でございますが、陛下にはお気に召すかと覚えましてこうして御前に献上いたします次第でございます。国王はことのほか喜んで、魔術師はその夜一晩下にも置かぬもてなしをうけた。  以来、水盤は、城にある塔の上の小部屋に置かれた。王子もこの水盤がひどくお気に入りで、他の遊び道具には見向きもしなかった。彼は水盤をのぞき込み、水に指を入れて小さな滴を落としてみる。すると、水面に幾つもの波ができ、その波と波との間に、様々な物が一瞬だけ見えては消えていく。王子が目を凝らして、かいま見える形や色をとらえようとするうちに、ふと気づくと、最後の波紋が通り過ぎており、そこには、何かが映し出されているのだった。映し出される物には何の順序も脈絡もなく、美しい物も悲しい物も、残酷な物も平凡な物も、ありとあらゆる物が映し出された。それだからこそ、決して飽きる事がなかった。  彼が十歳の時に母親である王妃が亡くなった。その全ての葬儀が終わった夜も、彼はその部屋にやって来て水盤を揺らした。水盤が映し出したのは、とてもこの世のものとは思われぬ、美しい花畑の風景であった。広々とした青空のもと、目の届く限り彼方まで、緑の草と、小さな花々だけがあった。それはまるで、天才的な絵かきが人の心をなごませる色の割合、間隔、色使いを心得て描いた風景のようであった。息を飲むのではなくほっと息を吐きたくなるような、そしてまた、自分は昔まだ無垢な幼子だった頃にこの風景を夢に見た事があると信じたくなるような、そんな風景だった。王子はその光景を見ながら、母君も今はこのような場所にいるのだろうか、だとしたら彼女は今幸せだろうかなどと考えながら、じっとその美しい風景を見つめ続けた。と、その時、不意に水面が乱れた。二度、三度と水面が揺れる。びっくりした彼は、そのとき初めて、自分が涙を流していた事に気づいた。そしてそのまま、静かに泣き続けたのであった。  王子はそうして水盤を眺めて育った。王子は若者といってよい年頃になり、賢く、考え深く、大人びたまなざしを持つようになった。彼は相変わらず水盤をのぞき込み、ほほ笑み、喜び、憂い、考え、遥か遠くの景色に想いをはせ、しばしば溜め息をつく事もあった。ある時、王子に仕える臣下の者が王子の憂い顔を目にし、こう尋ねた。いかがなされました。王子、何やら、ご気分の優れぬご様子。私めでよろしければ、どうぞ何なりとお申し付けくださいませ。王子は答えた。いや、なんともない。ただ最近は、あの水盤を見ていると考え事がされてならないのだ。なんという事もない事ばかり、ひとつもまとまりはしないのだが、と王子は軽く笑ってみせた。  その幾日か後の、夜の事である。王子はなぜか眠る気分になれず、水盤の部屋へと足を運んだ。宮廷はすでにおおむね寝静まっていた。彼はらせんの階段をのぼって水盤の部屋へとたどり着き、中に入った。その部屋は小さく、壁には窓が一つ付いているだけの殺風景な部屋であった。その窓のそばに、いつものように、水盤が置いてあった。王子は何気なく部屋に入り、水盤にちらと目をやって、そしてはっとして息を飲んだ。  そこにはある美しい娘の笑顔が映し出されていた。髪の色は栗色で瞳の色も同じ、はだは白く、ゆったりとした藍色の服を着て彼女はいた。映し出されているのは横顔で、顔かたちは品がよく、愛らしかった。  王子は我知らず、前に向かって一歩踏み出した。そして、その自分の足音の大きさにぎょっとして、二、三歩後ろにさがった。もし少しでも水盤を揺らせば、彼女の笑顔は永遠に見られなくなってしまうという事に思い至ったのである。この水盤が同じ物をまた映すことは決してないと言ってよかった。  そこで王子はすぐさま、自分が何をすべきか考え始めた。そしてまず二人の衛兵を呼び付けて、塔へのぼる階段のドアの前を見張るよう言い渡し、彼らの隊長を読んで、このドアには昼夜問わず二人の見張りをつけるように、と堅く命じた。そして、王子の許しがなければたとえ国王陛下その人といえども塔の中に入れてはならぬ、もしこれに反する事があらば中に入った者も見張りも共に厳罰に処す、と言い渡したのである。次に王子は職人を呼び、一つだけあった窓を完全に埋めさせてしまった。というのも、しばしばその窓から鳥や虫が部屋に入って水盤の水を揺らす事があったからである。以前はそのような出来事も楽しんでいたのだが、もはやそれは決してあってはならぬ事であった。王子は暗くなったこの部屋にランプをいくつか持ってこさせ、それらを部屋のすみに置いて中を照らすことにした。  王子の心配はこれだけにとどまらず、その後何週間にもわたって続いた。ある夜には、王子はねずみが水盤の部屋に入るのではないかと不安になり、突然仕えの者たちをたたき起こして、毒をふくませた餌を城中にばらまかせた。そのため、しばらくすると城の中ではねずみがほとんど見られなくなった。またある時は石造りの天井から石のかけらが落ちるのを防ぐため、布を張り巡らして天井の四隅にしっかりと固定させた。また、ほこりや砂をなくすため、徹底的に部屋を掃除させる事もあった。  まわりの者はみな、王子の気がふれたのではないかと案じた。ことに、国王の心配は並のものではなかった。そこで臣下の者の提案によりひそかに何人かの医師が城内に招かれ、さりげなく王子を診察したが、彼らは口を揃えて王子は正気だと告げた。しまいには王子自身も周囲の心配を察し、自ら父親である国王にこう告げた。どうか、今は私の愚行をお許し下さい。私は自分がしている事を分かっております。これがどんなに奇妙に見えるかは私も十分に承知しておりますし、もし私の子供がこのような振る舞いを始めたならばやはり心配した事でありましょう。私に対する父君の輝かしい威信と深い慈愛のお心には感謝のしようもございませんが、どうか今少し、私の行動をお許しくださいませんでしょうか。国王は王子の目を見、その言葉を聞き、ついには王子の好きにさせる事にした。  名君として名高い国王がそれ以上追及しなくなったので、周囲の者もことさらに王子の行動を問題にしなくなった。しかしそれでも、王子の不安はまだまだ尽きる事がなかった。王子がしようとしている事を考えればそれは当然だったかもしれぬ。それは、つきつめて言えば、水面に一つの波、どんな小さな波をも立たせない、という事であり、それは虫一匹、砂一粒にも気を配るという事なのである。今では王子は職人に大きな水晶の半球を造らせ、水盤を置いた台ごと、すっぽりと覆ってしまっていた。かといって王子の心配が無くなったわけではなく、ねずみの退治や部屋の掃除にも気を抜く事はなかった。それどころか下の部屋で騒いで足音が響いてはならぬと塔の下の部屋を立ち入り禁止とし、続いてその両隣の部屋も立ち入り禁止、塔の階段の前の廊下も見張り以外は通ってはならぬ、と定めた。  このようにして、王子は、どんな小さな物であっても波を立てぬよう、細心の注意を払った。彼はあらゆるささいなものに怯え、心配をし、その不安を解消すべく手を尽くした。そして、次第に、ゆっくりとではあるが、王子の心配の種は一つ、また一つと減っていった。  ある日の事、王子はすがすがしい気分で目を覚ました。こんな事はひさしくなかった事だった。水盤にあの娘が映し出されて以来、彼はいつも不安にさいなまれ、夜もよくは眠れず、目覚めてはあの水盤は大丈夫だろうか、あの娘の像が消えてはいまいかとそればかりが気になっていたのだった。だが、この朝は違った。ついに全ての不安の元は解消され尽くし、王子の心には何の心配もなくなった。たとえばどんな小さな虫一匹、どんなに微細な砂一粒であったとしても、あの水盤までたどり着き、その水面に波を立てることなど出来はしない。王子はそう考え、安心のあまり、笑みをもらした。  王子は、非常に上機嫌のまま、水盤の部屋がある塔に向かって歩き始めた。それから、ふと、ここしばらく、水に映っているあの娘の顔をちゃんと見ていなかった事に気づいた。上から水晶の半球をかぶせたせいで多少見にくくなってもいたし、それに王子はずっとまわりに気を配るのに夢中で、心にそんな余裕もなかった。だが、今日は久し振りにゆっくり落ち着いて彼女の顔を見る事ができる。王子はそう考えながららせん階段をのぼり始めた。階段をのぼる王子の足取りはともすれば早くなりがちで、気がせいているのを感じて王子は苦笑した。何も心配はないのだ。どんな小さな物も水を揺らすことはできないのだから。どんな小さな物も。彼は気を落ち着け、ことさらにゆっくりと足を運んだ。  彼は小部屋のドアをそっと開き、中に入った。暗い小部屋の中、いつものように、水盤はそこに静かにあった。水晶の半球に覆われて、静かに水をたたえていた。彼はゆっくりとそれに近付いた。そして、映し出されている彼女の笑顔を見た。  それは本当に美しく、愛らしい笑顔だった。王子は一瞬だけ、その笑顔を見た。そして、次の瞬間、それはかき消すようになくなっていた。  水面には波が立っていた。  王子は呆然とし、目を疑った。立ち尽くしたままだった。何が原因なのかさえ分からなかった。一つの言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡った。どんな小さな物も、どんなに小さな物であっても、この水面を揺らす事など出来ない、出来るはずがない。だが依然として水は揺れ続けていた。それから王子は、はじめて自分の足元がふらついているのに気がついた。その揺れは急に激しくなり。王子は床に投げ出された。  大地が揺れていた。地震が起きたのだった。   この国を襲った地震は、大きな被害をもたらした。あちこちで山は崩れ、大地は裂け、多くの人が怪我をしたり、死んだりした。  国王は、たまたま城を不在にしていて無事だった。彼は旅先からすぐさま城に引き返した。そしてまず、被害を調べるために国の四方に向けて多くの使者を放った。使者たちは各地に国王の無事を知らせ、人々はそれを聞いてひとまず安堵し、神に感謝し、心の支えを得た。  地方の村での被害は割合に少なかった。村人たちがみな仕事に出払っている頃合いだったからだ。家に残っていた女、子供が怪我人のほとんどで、死者はあまりなかった。それに比べると街では特に被害が大きく、建物が倒れたり、壁の下敷きになったりといった事のために大怪我をしたものが数えきれないほどになった。  城の被害も相当大きなものだった。城を造っていた石の多くが崩れ落ち、倒れていた。厨房では、食器棚が倒れたり鍋がひっくり返ったりしてひどいありさまとなっていた。馬屋では、何頭かの馬が不運な番人と共に、倒れてきた岩壁の下敷きとなり、怪我をしたり死んだりした。何頭かは自由になって逃げ出し、さらにそのうちの何頭かはどんなに探しても戻ってこなかった。地下室はあらかた崩れ落ちてきた岩に埋められてしまい、入り口に近付く事すらできなかった。  そういった瓦礫は、ちゃんと動ける者たちによって少しずつ片付けられ、そのおかげで、まだ生きている者がごくわずか、助け出された。その途中で見つかった不運な死者たちは、そっと一カ所に集められて仮埋葬された。しかし、主な瓦礫が出尽くし、ほとんどの者の生死が明らかになった後も、王子の姿だけはどこにも見つからないままだった。生きているか、死んでいるかさえ誰にも分からなかった。あの塔は地震の折りに中庭に崩れ落ちてしまっていたが、王子が崩れ落ちる前に逃げられたのかどうかは、誰も知らなかった。塔の階段の入り口を守っていた二人の兵士は、塔が崩れるより先に、一人は大怪我をして倒れ、もう一人は気絶していた。ただ、その気絶していた方は、自信なさげにこう報告した。石が落ちてきて気絶する寸前、王子が何事か叫んでおられたのを聞いたように思います。ですが、何と叫んでおられたのか、はっきりとは分かりません。それどころか、それは石壁が崩れ落ちた音ではなかったのか、と聞かれると、確かにそうではなかった、とも言いきれないのです。今にして思えば、あれは、とても人の声とは思えないような、恐ろしいほど大きな叫び声だったように思われます。もしかしたら、仰天のあまり、私が地響きを叫び声に聞き誤ったのかもしれません。この兵士はこれだけ報告すると、自らの無力を恥じつつ引き下がった。結局何も手掛かりは残されていなかった。  国王は悲痛な面持ちで、中庭の塔の残骸をくまなく捜索するよう命じた。もちろん彼自身、何か良い結果を期待しているわけではなかった。それでも命じられた者たちは、王の心中を察し、あらゆる手段を尽くして中庭の隅から隅まで、あらゆる場所という場所を探し尽くした。しかし、どんなに探しても、王子に関するものは何一つ見つけられなかった。結局、彼らがその塔の残骸の中から見つけたものは、水晶の半球ごと巨大な石につぶされて、粉々に砕け散った、あの水盤だけだった。 (Fin)
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