73人が本棚に入れています
本棚に追加
「いらっしゃい! お疲れ様!」
カラン、と音の鳴る扉を開けて中へ入ると、いつものようにはつらつとした明るい声が静矢を迎える。
「忍、お疲れ」
こうして毎日、仕事が終わった後、静矢は必ずここへ来る。そもそもはじめはただ忍を迎えに来ていただけだったが、最近はついでにここで夕飯を食べて帰ることが多くなった。嶋もまた、静矢と退勤時間が重なると、一緒にここへ来て夕飯を食べ、ついでに酒を飲んで帰る。静矢はマスターである篠崎や忍には申し訳ないとは思いながらも、今ではその好意にすっかり甘えてしまっていた。
「義兄さん、今日は早かったんだね!」
「よう、忍!」
静矢の後ろから嶋が顔を出すと、たちまち忍の笑みが消えた。明らかに嫌そうな顔を見せて、彼は口を尖らせる。
「なぁんだ、嶋さんも一緒だったの」
「なんだとはなんだ。仮にも常連客だぞ」
嶋は不服そうだ。それには構わずに、静矢はいつものカウンター席へ座る。すると、嶋も釣られるようにいつも通り、その左側の席に座った。ここが二人のお決まりの席である。
「はいはい。でも、ちょっといっぱい作りすぎちゃったからちょうど良かった。嶋さんも食べてくでしょ? ちょっと待っててね」
忍はそう言うと、すぐに厨房に入っていった。
「こんばんは、お二人とも。いらっしゃい」
穏やかな声で挨拶をして、一人の紳士が厨房から出て来た。彼はこのカフェのマスター、篠崎だ。静矢は頭を下げる。
「どうも、お邪魔してます」
「どうですか、美術館の方は。もうすっかり秋ですから、忙しくなってきたでしょう」
そう言いながら、眉を下げて笑うその顔には人のよさが滲み出ている。篠崎はグラスを二つ取り出し、氷を三つか四つほど入れて水を注いだ後、輪切りにされたレモンを入れ、それをコースターに乗せて二人に差し出した。
「そうですね。まぁでも、おかげさまでなんとかやってますよ」
静矢は嶋と顔を見合わせて頷き、そう答えた。那須の秋は本当に忙しい。夏場は避暑地として観光客で賑わうこの町だが、秋が深まり、山の紅葉が色づき始めると、寧ろ夏場よりもその賑わいは増して、猫の手も借りたいほど忙しくなる。しかし、そんな那須の秋ももう二度目だ。
「それは良かった。忍くん、蒔田さんのこと随分心配してましたよ。最近忙しくなってきたから、疲れが溜まってるんじゃないかって」
「あ……、そうですか……」
正直なことを言えば確かに、その自覚がないわけではなかった。それでなくても、秋が近づくと、静矢は余計なことをあれこれ思い出すせいで、気分が落ち込んでしまう。
「参ったな……。すっかり見透かされちゃってますね」
「いやぁ、お二人は仲が良くて羨ましいです。私も上に歳の離れた兄がいますが、これが本当に気難しい人で、昔から気が合わなくてね。大人になってからはほとんど会うこともなくなりましたよ。お互いもう四十過ぎですから、喧嘩こそありませんが」
篠崎はそう言って苦笑した。すると、嶋が得意気に口を挟む。
「マスター、兄弟なんてもんはそうなんですよ。寧ろそうでなきゃいけない。男同士というだけで、自然界ではライバルですからね。仲良しこよしでいるって方が間違ってるんです」
「おい、それはライオンかなんかの話か?」
「いや。自然界で暮らす、人間という動物の話だよ。この世界で一番恐ろしい、地球にとって有害な動物だ」
「ちょっと聞いたことがないな」
静矢がわざととぼけて見せると、嶋は眉を上げる。そこへ忍が戻って来た。
「まーた嶋さんが変な話してる」
忍は二人分の食事を持って厨房から出て来るなり、呆れたような目で嶋を見て言った。
「変なもんか。おっ、やっぱりカレーだったな。イタリアンの店でカレーが食えるとは光栄だ」
「うるっさいなぁ、嶋さんは……。言っとくけど、これはただのカレーじゃないよ。忍の特製、トマトカレー!」
「トマト……?」
静矢は思わず聞き返した。目の前に置かれた皿に盛られているそのカレーは、僅かに赤い色をしている。一見、レッドカレーのようにも見えるそれには、トマトがたっぷり使われているようだ。
「なんでカレーにトマトを入れることになったんだ?」
静矢は眉間に皺を寄せた。ただし、香りは――そう悪くはない。
「あー、義兄さん疑ってるでしょ? これ本当に美味しいんだからね!」
「忍、仕方ないって。蒔田の味覚は小学生レベルってことを忘れたか?」
嶋の言葉には眉をしかめた。悪いが彼にそんなことを言われたくはない。どうせ彼は、ちょっと酒が入ればあっという間に酔っ払って、そのうちに味だろうが何だろうが、わけがわからなくなるに決まっている。
「ねぇ、義兄さん。騙されたと思って食べてみてよ」
嶋は既に一口食べて「美味い、これはいけるな」と頷いている。
「いただきます……」
少し赤みがかった、ひき肉入りのルウとご飯をスプーンに半分ずつほど掬い、恐る恐る口に運ぶ。その途端、静矢は思わず目を見開いた。
「うま……」
「ほら! おいしいでしょ? さっきマスターも食べてくれて、お墨付きもらったんだ!」
「お前な……。そんな安心保障があるなら先に言ってくれよ」
「ごめん、ごめん! お代わりあるからね!」
「あっ、忍、ビール! ビールくれ!」
不意に嶋が思い出したように言うと、忍はすぐに顔をしかめる。
「え……。嶋さん、また飲むの……?」
「一杯だけだよ、一杯だけ」
「一杯だけでも、運転して帰れないじゃん」
「だからさ、また代行よろしく」
「えぇ……。またぁ?」
忍はまた口を尖らせて、グラスに注いだ生ビールを仕方なく嶋に差し出した。急に不機嫌になった忍を満足気に眺めながら、嶋はそのグラスに口をつける。
嶋はいつもこうして一杯だけ酒を飲んでは、帰りは忍に車を運転させて、自宅まで送らせていた。嶋を送った後、忍は当然帰りの足がなくなるので、静矢がその後から追いかけるように車でついて行き、忍を乗せて帰るのだ。
「あんまり常用するなら、そのうちお金取るからね」
忍が言う。全くだ。静矢と忍は運転代行を無償でやっているようなものなのだから。静矢は忍の言ったことに、心の中で深く同意した。
最初のコメントを投稿しよう!