第三話 唇の記憶~狭山忍~

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「もういい加減にしてよ」  ハンドルを握り、苛立(いらだ)った声で忍は言う。 「何が?」  嶋が聞き返す。彼は助手席で必死に笑いを(こら)えているようだ。 「わかってるからね。おれを口説(くど)く為に毎日お酒飲んでるって」 「酒は好きで飲んでるんだ。それに仕方ないだろ? こうでもしなきゃ、お前と二人っきりになれないんだから」  吐息混じりの、まるで(ささや)くような嶋の声にぞくりとさせながらも、忍はさらに苛立(いらだ)ちを覚える。 「前も言ったけどね。おれ、嶋さんとは無理だよ」 「ふうん。あいつならいいのか?」  嶋は親指を立てて、後方(こうほう)を指差している。嶋の車のすぐ(うし)ろには、静矢の車が追って来ていた。 「……そう言ったじゃん」 「無謀(むぼう)だな。万が一、あいつに()いてもらえたとしよう。でもそれは嫁さんの面影(おもかげ)をお前に重ねて、身代わりにされてるだけに()ぎない。どのみち終わるぞ。やめとけ、やめとけ」  嶋はそう言うと、忍を茶化(ちゃか)すように笑った。 「ほっといてよ! おれはおれの気の済むようにしたいだけなんだから」 「よし、わかった。じゃあその代わり、オレのことももう(ほう)っておいてくれるか。オレはお前を振り向かせたいだけなんだからな」  あぁー、ムカつく……。  忍は苛立(いらだ)ちながらも嶋の言葉を無視する。この嶋という男は、本当に口の減らない男なのだ。もしも()(あし)を取るとか、あー言えばこー言う選手権みたいな大会があったら、日本一になれるのではないか、と忍は思っていた。 「しかし長い片想い続けてるよなぁ。いい加減()きないのか? もうかれこれ八年くらい()つんだろ?」 「仕方ないでしょ。何年()ったって、好きなもんは好きなんだから……」  自分で言ったくせに、(ほお)が急激に火照(ほて)って熱くなっていく。 「くそー。それをオレに言ってくれればなぁ。オレ達は一瞬でハッピーエンドになれるのに」  おあいにく様。忍は心の中で嶋にそう返した。忍は大学の頃、アルバイト先で知り合った静矢に、長年片想いを続けている。初めてのアルバイトでガチガチになって緊張していた忍に、仕事を一つ一つ、丁寧に教えてくれた静矢は、魅力的な好青年だった。背は高くすらりとしていて、笑顔が爽やかな第一印象にまず初見で()かれたのはもちろん、彼はそれに(くわ)えていつも落ち着いていて優しく、頼りがいがあって、一緒に仕事をしていると無条件に安心できる存在だった。忍はそういう静矢をすぐに好きになってしまった。  あの頃は静矢さんとよく遊んだなぁ……。  学生の頃は静矢と一緒にいることが多かった。くだらないことで笑い合える彼と一緒にいるのは楽しかったし、(そば)にいられるだけで嬉しかった。  忍は元々、自分が同性愛者だということを早くから自覚していた。だが、それまでは誰かを好きになっても、単なる(あこが)れとか、少し気になる程度で、はっきりと他人に対して恋愛感情を持ったことはなかったのだ。ただし、今から思い返せばそれは、叶う可能性の低い気持ちを自分で抑え込む(くせ)がついていただけ――だったような気もする。それなのに、静矢への恋心は抑えようとすればするほど、(つの)っていくばかりだった。  忍の片想いは、不安である一方(いっぽう)で、幸せでもあった。(そば)にいると、どうにかして静矢と恋人同士になりたい――と欲が出てしまう時もあったが、そこはやはり難しいことだと理解してはいたし、今は近くにいられるだけ幸せだと、その頃は本当にそう思っていた。  ところが、ある日。姉の茜から「静矢と付き合うことになった」と聞いて、忍は今までのすべてを一瞬で後悔したのだ。  仲良くならなきゃ良かった。  好きにならなきゃ良かった。  早く、好きだって言えば良かった……。  そんなことを思ったところで、もう何もかもが遅かった。それからは、幸せそうな二人に祝福の言葉をかけるのが精一杯で、無理やりに笑顔を作って話すのは本当に(つら)かった。あの頃はよく泣いたし、静矢を想うといくらでも涙が出た。静矢の(そば)にいられればそれでいい、と思っていた忍の中の淡い恋心は、いつの()にか、静矢を(ひと)()めしたいという独占欲が混じった、強い想いに変わってしまっていたのだ。忍はその時、やっと自分の想いの強さに気付かされたのである。
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