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「何があったの?」
エミリーが美しい広東語で訊いた。
私は自動販売機の置かれたディールームのソファに座り、右に座ったエミリーに問い詰められている。
「亀澤のことか?」
私は日本、香港、北京と渡り歩いてきたので、私の言語は日本語訛りで北京語混じりの広東語だ。私はエミリーの日本語が酷いと思うが、エミリーはきっと私の広東語を酷いと思っているに違いない。
だがエミリーは35年一緒に生きてきて、私の広東語を非難したことは一度も無い。
「貴方のお友達は異常よ、あの人に一体何があったの?」
ある世代以上の日本人なら誰でも知っている事件も、中国人となるとそうもいかない。
しかし、私は自分も山口絵梨花を愛していたとは妻に言いたくないので、それは伝えなかった。
「亀澤は、山口絵梨花と結婚した元俳優だ」
「俳優さんだったの?」
「桜井和義って、知ってる?」
エミリーは頷く。
「知ってるわ、山口絵梨花と映画ではいつもお相手役を務めていたわ」
「亀澤が桜井和義だよ」
エミリーには衝撃の事実だったのか、目を丸くした。
私は続ける。
「桜井和義の本名は亀澤稔久だ」
私は若かった頃を懐かしく思い出す。
「俺は亀澤が俳優になる前からの友人で相棒だった。だからマスコミに結婚発表する前に亀澤は俺に教えてくれたよ。二人は幸せだった。ところが、あの事件が起きた」
私の表情も苦悶に歪む。
「結婚して間も無く、山口絵梨花が悪名高いカルト宗教団体『永遠幸創会』に出家する騒動が起きたんだ。山口絵梨花は教団の本部ビルに引きこもって、外部の人間は山口絵梨花の姿を見ていない。亀澤は一方的に離婚届に判を押すように言われてショックを受け、俳優を引退に追い込まれるほどに心と身体を病んでしまったんだ」
「そんなことがあったの……」
エミリーは説明を受けて大方の事情を知ったが、当時の報道の過激さや情報番組のリポーターの無責任さなどは分からないだろう。
「亀澤は何度も彼女に会おうとした。しかし教団は彼女に会わせてくれない。『永遠幸創会』は女性信者しか出家を認めていないんだ。こうして精神を病んだ亀澤は、教団本部ビルの裏手にあるこの病院の病室で、若かった頃の山口絵梨花のポスターに囲まれて、彼女が永遠に若いままだと思って暮らしているんだ」
エミリーは不可解に感じたのか私に訊く。
「永遠に若いってどういうこと?」
「『永遠幸創会』に出家した女性は年を取らなくなって、永遠に若いままでいられると信じているんだ」
「何それ? いつまでも若いままで居たいの?」
私は微笑む。
「中国人は早く大人になりたい、立派になりたいと願う傾向があるからね。でも日本人は傾向として、いつまでも若いままでいたいと願う人が多いんだよ」
大まかな説明は済んだが、エミリーは私に訊く。
「教団本部ってこの病院の裏手にあるんでしょ?」
「そうだけど」
「あなた、行ってみたら?」
私は戸惑う。
「どうして私が?」
「だってお友達の亀澤さんは死にかけているのよ。それを伝えれば、山口絵梨花も彼のために姿を見せてくれるかもしれないじゃない」
「無駄だと思うけど」
「あなた、怖いの?」
妻の言葉に私はドキッとする。
「怖いって何が?」
「山口絵梨花が本当に若いままなのか、それとも年老いているのか、貴方はそれを知りたくないんじゃないの?」
図星だったが、どうして妻が私の心情を完璧に見抜いているのかが分からない。
妻は激励するように提案する。
「貴方、行ってみるべきよ。ダメ元でも良いわ。友達のために貴方、その団体に抗議に行くべきよ。あのまま友達が死んじゃったら貴方、一生後悔するわ」
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