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書評とは?
本企画「マジ万字書評」内にて記載した語彙についての追記、解説です。
なぜ、本編と分けるのか?
本来は本編内で書くべきですが、これをやっていると何万字あっても足りなくなるのです。
こちらを読んで頂ければ、ご理解できるかと思います。
蘊蓄の嵐です。
本編でさえ蘊蓄の嵐なのに、あれ以上の蘊蓄は邪魔になるので、こちらで書く事にしたのです。
ガチガチの論文のつもりで書きます。
面白くない! って意見は聞きません。
論理しか書きません!
論理が苦手な方は、読まない方がいいです。
では……
【書評について】
書評とは、何か?
これは企画、計画、目的によって意味合いが変わる、けっこう特殊な「論評」です。
似たような評に「感想」「批評」があります。
これらを含めた三分類が、各所で書かれている「評」のスタイルです。
・「感想」とは、自身の意見陳述に留まるもの。
私は、僕は、こう思いました。他の人と違う? 当たり前でしょ、これは僕の意見なんだから。
これが、「感想」です。
例えば「面白かったです」。これは感想です。面白い、理由がありません。
「Aさんがステキでした」。これも感想です。ステキな理由がありません。
「Bの背景がノスタルジックに展開され、回帰的な幻想を思わせる」。これも「感想」です。ノスタルジックかどうかは、貴方の主観です。それで回顧するのも、貴方だけかもしれません。
つまり、「面白い」「ステキ」「ノスタルジー」などの言葉に、根拠が無いものは、全て感想です。
では、根拠とは何か?
「面白い」には色々な尺度がありますが、これを論理体系を持ってして、参考文献を論拠として、はたまた市場調査による統計データをもってして、他者に反論されても崩されない「理由」を持ってして、初めて根拠と呼びます。
これを哲学では「絶対」と呼びます。(本当の「絶対」は、またいつか書きますが、使い勝手が良いので使用しました)
他の人に「それはあんたの意見だろ」と言われた場合、数時間くらい討論できないものは、全て感想です。「いやー、これは私の意見だからぁ」と逃げるのならば、それは感想です。
こんな風に書くと「感想は悪い事、程度の低いもの」と思われるかもしれませんが、そうではありません。
全ての事象において「メリット」と「デメリット」は同等に存在します。
完全な理論を持ってしか、話をしては駄目! となってまうと、これは日常会話に影響を及ぼし、単なる言葉狩りになります。
日常会話こそが「口コミ」という影響力の大きな倫理基盤に存在しているのですから、これを否定してしまうと発展性が著しく欠如します。
ですので、「感想」は「口コミ」を目指す為のツールであり、SNSなどを利用する場合は「感想」がベターです。
デメリットは上記の通り「それ、お前が思っただけの事だろ?」で、終わってしまう点です。蛍みたいなものです。光ったら、その瞬間で終わりです。
・「批評」とは
まず「批評」というのは、日本人は止めておいた方が良いです。これは西洋文化であり、日本文化には合いません。
批評文化、を検索すれば、ほぼほぼヨーロッパの文化が検索されるはずです。
これは「ヘーゲルの弁証法」という、哲学界での大転機に遡ります。ヘーゲルという哲学者は、それまでの哲学を編纂する哲学者でしたが、この最中ある事に気づきます。
「プラトンとアリストテレスの意見を戦わせたら、別の論理が出てきたりしない?」
この発見が、大ムーブメントを作ります。(因みに、プラトンとアリストテレスは私が今勝手に書いただけです。ヘーゲルは歴史の傾向からこれを発見しました)
要約すると
Aの意見に対し、「それは間違っている」という論理を100%行う。(100%行えなかったら、出直し。不成立)
その論証の上で、Bの意見を出す。
Bの意見が100%正しいと論証されるか、それでもまだAの論証が正しいかを検討。
Bが100%になる事は、概ね無い。
でも、この戦いの中で新しい何かが出なかったか?
この決闘の結論、新たな「C」を出そう!
そういう議論です。
戦闘民族の思考方法です。
なぜ、日本人のレビューが「感想」ばかりなのか? それは、日本人は戦闘民族では無いからです。(いつかこの理由も書きます)
二百年も鎖国できるくらい外交内政共に安泰していて、世界で一番長い王朝(現天皇家)を持つ日本人には、この感覚は分からないはずです。
忖度こそが日本人の正義で、戦う日本人は日本人ではありません。
これが分からなかったから、第二次世界大戦で負けたのです。
安パイの「感想」しか書けないのが、そもそもの日本人の性質です。
しかし、ヘーゲル弁証法(アウフヘーベン)を持つ西洋では、戦ってナンボ! の精神があるので、「否定」される事が「始まり」です。(他にも理由はありますが、いつか書きます)
ほとんどの日本人にとって「批評」は「悪口」にしか見えないのでは無いでしょうか?
でもこの二つは、大きく異なります。
「批評」の場合、相手を100%否定し、その上で自身が正しい論理を提示しなければなりません。
ここです。「人を否定する以上、自分が正しい事を認めさせる完璧な論理」を作っておかなければ、それは「悪口」なのです。その上で、もし相手も自分も否定せざるを得ない場面になったら、別の新しい何かを作る! という容量も待ち合わせる必要もあります。
それが「批評」の目指すべき場所です。
日本人は、これが苦手です。論理よりも「倫理」を重視します。論理があろうがなかろうが、倫理に適さない場合、それは「悪」です。
※ ここでは「倫理」を「村社会」「社会のルール」くらいに訳しておいてください。また説明します。
これは西洋でもかつては同じでしたが、ルソー、ヘーゲル、ニーチェ、マルクスその他哲学者により覆されました。
キリスト教が全て! という時代を、ルネサンスにより転換しました。
日本ではこれが、未だに、自発的に成されていません。
戦争に負けてGHQによりアメリカ属国となりましたが、それでも村社会は健在です。
明治維新が=「ルネサンス」みたいに書いてある図書を読んだ事がありますが、ふざけてます。フランスとイギリスのバックボーン無しで、明治維新なんて起きませんでした。(威力としてはアメリカも)
今でも、村社会精神は健在です。
世界で唯一「社会主義」を成功させている先進国が、この日本です。(これもいつか書きます)
よって、「批評」はまだ受け入れられる土壌が日本には無いと思うので、私は書きません。後、批評は書評の数倍は力を使うので、時間的にも無理なのでやりません。
でも「指摘」を書いています。これの目的は「ふるい落とし」です。
指摘なんて、プロになれば毎日です。私はプロ作家ではありませんが、プロ営業マンです。毎日、指摘を受けています。しかも金(給料)も絡みます。
でも、この「万字書評」ではプロ級の指摘はしていません。
「この作品での売り上げ予測はできてるの? その理由は?」
なんて言いません。そのレベルの指摘です。
現在の本編(万字企画)レベルの指摘も受けられないような覚悟で、私の時間を奪われたくない。
「なにくそ! この野郎! てめー、いつかギャフンと言わせてやるからな!」
くらいの牙が無い人の作品を、読む気になれません。
その為の「指摘」であり「マジ」の意味だったのですが、企画を開始して私がギャフンと言わされました。
「てめー温いんだよ! 体裁整えてんじゃねー! 言いたい事あるなら言ってくれよ!」
という作家様が続出している現状で、私は至福しかありません。
それでも、「指摘」は主旨の「書評」とは違う事を御理解下さい。
・「書評」とは
書評とは、一番あやふやな論評です。
一般的な感覚では「感想」に近いと思います。
というのも、そうだと勘違いして宣伝活動をしている人間が多いからです。
はっきり言います。
今「書評」をしている世間体のある方、それは全部「感想」か「批評」のどちらかです。
今現在多い書評家は、YouTubeなどの宣伝媒体に多数います。
なぜか?
①「書評」とは、宣伝を目的としているからです。
②その上で「自身の個性を出す」という作業です。
これは営業ツールなのです。
映画や音楽であればプロモーションビデオなどを広告で流します。これと同じです。
小説でPVは作れません。文字だから。文字を説明するには「他者の意見」を必要とされます。この場合、最も思い浮かぶのが「帯」、あと「後書き」です。
帯は見ての通り「有名な人」が書きます。このネームバリューでどうこうしようという浅はかな考えです。
「後書き」も、皆様お分かりですね? 読書感想文を書いてこい! という宿題の必勝法が「先に後書きを読む」ですものね。(実際には、全然必勝法ではないと、皆様は御理解されているはずです)
この「後書き」の中で、分かりやすいパターンと、分かりずらいパターンがあると、気付かれているはずです。そして、分かりずらいパターンは往々にして「論理的作家」だった場合が多いという事実も知っているはずです。
読書の時間短縮の為に楽をしたい非読書家に向けるのか、価値のある読書体験をしたい読者に向けるのかで、書評の内容は全く異なります。
そう、「書評」にはターゲットがあるのです。
誰に向けてこれを「宣伝」しているのか? で、書き方がまるで変るのです。
今企画の書評でも、この募集を「学生」に限定していたのなら、指摘なんか書きません。面白いを連打した「感想」を書くだけです。
もしくは企業案件を狙っているのなら、やはり「面白い」しか書きません。
実際の企業案件なら「面白い」以外に書く権利がありません。
これが、「書評」の持つ不憫です。
あくまで「宣伝」を目的としている以上、相応の枷を受けます。ですので、私が褒めちぎっているからと言って、油断しないで下さい。嘘の可能性も……。
無いです!
ここを話す為に、3600字も使いました。
漸く、書きたい事に入ります。
嘘でも何でも「面白いって言って、宣伝できればOK」って書き方は、大嫌いです。そんな宣伝人しか居ない現状の世の中で、ここに仲間入りしたなど、夢も希望もありません。
よく知人に言われます。
「みんなが面白いと思える書評は、内容を話す事だ」
は?
その根拠は?
無いの?
あっそう!
ここはあくまで「万字外伝」であり論理のみで話していますので、上記意見に賛同の方は御退出下さい。
私の「万字企画」のターゲットは、「既に書いている人」です。一般人ではありません。物語を作成する経験を幾度も行い、また今から始めたい、これからどう展開すべきかの僅かな兆しでも感じたい!
そんな人をターゲットにしています。
その上で、何が「良く」できていたのか? を把握する為のツールで、逆に「何が(私の)心を捉えなかった?」の判断基準の一つとして、利用してもらう為のツールです。
もしくは、「同じ作家志望から見たら、こういう見方もできる」という偏見により一般読者への価値をつける作業です。
「至上の恋愛!」
みたいな帯は毎年無数に本屋で平積みされていますが、ヒット作は一つか二つです。
作業としてはそれが一番簡単ですが、これは「感想」です。
根拠が無い。
「なぜ、至上の恋愛なのか?」
誰の、どの作品の、どの部位と比較して、これを「至上」としているのか? もしくは、どのような論理があってこれを「至上」としているのか?
これが無いと、只の感想でしょ?
書評とは、論拠を持ってして書を評するのです。
そこで漸く出てきます。
②その上で「自身の個性を出す」という作業です。
これ。
個性とは、私の論理体系を指します。論理体系は、あくまで私の経験則での中での論拠です。
「私、という個人の論理体系」と「あなた、という論理体系」での価値観の相違を浮彫にさせる。
それが「価値」になる!
つまり、論拠が無くては、個性が無ければ「書評」にはなりません。
批評と結果は同じですが、過程は違います。
「それ、お前の意見だろ?」
に対して、三時間くらい話ができないのなら、書評を書くべきではありません。
皆様、自身の作品であれば、三時間どころか三日三晩かけて説明できるはずです。
これを、「他人」の作品に対して行う。
これが私の書評です。
日本中に蔓延する、いつもの「感想」を語るつもりはありません。時間の無駄です。
論拠、個性が無くては、只の戯言です。
よく私の書評で「論に偏っている」という意見がありますが、その通りです。「論」無しで語る感想を書くつもりはありません。
※ その場合は「これは感想ですが」などの語句を差し込んでいます。
論拠無しに他者の良し悪しを公言するほど、私の精神は狂っていません。
でも「書評」の性質上、「良し」はかなり甘めです。その作家様のモチベーション維持を考慮しているので、過大評価はしています。
この点が不服の場合は「もっと指摘せーや!」とメンションなり、感想戦部屋にお越し下さい。とことんアウフヘーベンしましょう。
っと、ここまで読了頂いました方は「論拠って何? 論理体系って何?」となるかと思いますので、そちらは次回書きます。
(②「論理体系とは」へ)
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