論理体系とは

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論理体系とは

 度々、「肌感が合う」みたいな事を書きますが、その追記にもなります。    一般的に言われる「合う」「合わない」にの言及にもなるのですが、このような区分は、なぜできてしまうのでしょうか?  答えは明白です。  人は、自身の知識の中からしか発想ができないから。  例えば私の知人「男性」、年間読書数が10冊程度の人に「良い本ない?」と言われた時に「BL本」を進めたら、否定されます。 「こういうのじゃなくて……」  私が懇切丁寧に説明を加えたとして、買ってくれるかもしれませんが、読んではくれません。  ここです。  ここが重要です。  買ってはくれるのです。  読みはしないでしょうが、買いはします。    なぜか?  私が「論理的に」同性愛の良し悪しをプレゼンするからです。  本来、この知人に欠乏していた「知識」が、私によって蓄積され、その許容範囲を広げるからです。    ではこのプレゼンで、私は知人に何を話したでしょう? 「BL面白いから読んで」  と話したでしょうか? 「同性愛は今の社会でも話題のワードだから」  と話したでしょうか?  違います。  書評の「BL」編を刮目して下さい。  そんな事は、話していません。  論理を持ってして、物語の構造を語ったのです。(実際に「とらの穴」に連れていき、買わせました)   「物語において『主人公』になり得るキャラクターとは、いかなる背景を抱えていなければならないか? それは主人公の動機たる『苦悩』『葛藤』を持つキャラクターで、これが最も分かりやすく読みやすい例が『社会的抑圧』。とってつけた目標、『仲間は大切にしよう!』みたいな少年誌的なノリは知識の浅い少年には面白いけど、それ相応の経験を積んだ我々では陳腐に思えないだろうか? その点、同性愛っていうのは、社会的な抑圧があり、読み物としては一段上のレベルにある」    まぁ、この例は精神バイアスをかける誘導尋問も含まれているので、オススメできない方法ですが(なら書くな)、この説明では「物語の構造上の体系」を元に話をしています。  私は営業を毎日行っている人間ですので、只漠然と 「この主人公がカッコいいから!」 「ヒロインが可愛いから」  では、売れないと知っています。  他にも相手のキャパシティを考えない押しつけがましい形容詞が、全て無駄だという事実を知っています。  そんな「感想」では、人は物を買ってくれません。    では、根拠があれば買ってくれるのか?  それも違います。この世の中に「絶対の根拠」なんか存在していないと、皆様ご存じの通りですので、下手に根拠を並べると嫌悪感に変わります。  よくある営業セミナーでは、この辺りを「根拠を作るのは容姿だ」と決めつけて話します。「笑顔がどう」とか「お辞儀がどう」とか「人の印象は見た瞬間の……」とか。  これも違います。(新人さんには合っていますが)  結論付けると、  この人を信じて大丈夫なのかどうか? です。  セミナーで言う例も「笑顔」がどうか「お辞儀がどうか」を、「この会社がしっかり研修しているのどうか?」という背景を他者は「信じる基準」にします。  でも、実際の最前線では、これが通用しない場面の方が多いです。「会社」という資本が大きいほど「信じる基準」が大きくなるのは確かですが、そうなると「同等クラスの会社」が相見積になった場合、勝てなくなります。  この場合に決着をつける判断基準は「この人はどこまでの対応が可能かどうか?」です。  この「対応」は業種によって異なりますが、「予期せぬ事態」「別の何かを模索する時」に「この人が自分にとって役に立つ人間なのかどうか?」。これが最終的な判断基準になる場合が多いです。  簡単な言葉で「信頼関係」と呼びますが、これは「体系」です。  上記に上げた全ての例の一つが欠けても、良い体系にはなりません。  逆パターンもあり、一つに特化、特に「対応力に特化」したの方が営業的には売れます。(トップ営業マンは、軒並みこれです)この「対応力」は社内調整、対外調整などの稼働幅です。これも、「体系」です。  「一筋縄」では、その強度に不満を持たれるとも言い換えられます。  人に受け入れられる為には「体系」が必須です。  よく「合う合わないがある」と書評で書きますが、「一筋縄になってるよ」って意味で捉えてもらってOKです。  「体系」とは「その人の物理的、精神的、知識的に、動ける幅の範囲」です。  もう一歩進みます。  「論理」とは?  「表象(イメージ)を他者に伝える為の手法」です。  自身の持つイメージを、100%他者に伝えるのは不可能です。これを高める手段は「相手を想定する」です。  相手の知識レベルに合わせるのが、最も簡単です。  極端な例えで、幼稚園児に「死」を教える場合、ナイフを片手に「今から君の腕を切るからね」と言った場合と「死は悲しいんだよぉ」と教える場合、どちらが伝わるのか?  当然、前者です。  ナイフという暴力があり、説明する「大人」という暴力があり、「実際に体験するかも」という危機感があります。  後者は、何も説明していません。「悲しい」が説明されていませんし、仮に「悲しい」を「君の玩具が壊される」と付け加えても、それは真実を何一つ捉えていません。「玩具が壊される」=「死」という概念は幼稚園児の解釈できる幅にありません。実体に添っていないので、この説明は無意味です。(でも、この説明が横行する理由は、またいつか……)  つまり、   論理とは、見ず知らずの、自分とは異なる感性を持った方への橋渡しをするために必要なツールです。  極論を言えば、論理がなければ「他人」には伝わりません。  論理とは、他者が持ちえない「知識」を介入させる事で、自身の存在意義を提示する作業です。 「あぁー、もうやめて! そういう蘊蓄が一番嫌い!」  って女性陣、もう少しまって。分かるように説明します。  ここまでは「論理」についての有用性です。  人に何かを伝えるには「感想」では足らないって意味です。「私はこう思うんだぁー」では、プライベートの女子会ではOKですが、仕事にならないのです。意思疎通をするためには、論理を体系として作る必要があるのです。  では「論理体系」とは何か?  に移ります。  ここ最近の本編「万字企画」において、度々発現するワードで「この人、こんなの書くの?」って語彙。これは「この人ならば、こういう作品を書くだろう」という私の知識の範囲から外れた場合に書いています。  良い意味で、裏切られたのです。  常連様だけにしか書いていないはずです。  私の知識外から感性を撃ち込まれた、という意味です。  分かりやすい例が、鷹取さんの「第二回BL」、りふるさんの「キャラクター編」、紅屋さんの「第二回BL」です。(蒼井さんの「第二回BL」は、また別に書きます。あの方向性は特筆しなければなりません)    鷹取さん、りふるさんの「傑作」と評した二作品ですが、これは本編でも書いた通り「この人が、これを書くとは思わなかった」という意外性です。いつも通りの展開から、全然違う方向にベクトルを向けて来られたからです。  逆の意味で、紅屋さんの「第二回BL編」は書きました。いつもならば「もっと棘が入ってくるはず」。  でもこれは、私の知識です。  今まで読んだ作家様の類推で「この人はこう!」と決めつけているだけの経験談にすぎません。  人は生きていれば経験する分けで、今まで通りの自分である事なんか、六秒くらいしかないのです。  パソコンに向かってタイピングを始めた瞬間に、以前の自身とは別物の自身が創作をしているのです。  ※ これは脳の可塑性(かそせい)によるものです。  今まで、極端に言えば昨日と違う私が、同じ作品を書き続ける為の拠り所は何か?    私に酷似した私が、その文章の続きを書くから、私に繋がります。  私しか知らない私を紡ぐ作業。  これが「体系」です。    はい!   何言ってんの?  って感じですよね!?  かなり哲学臭ある書き方になりましたが、簡単なワードに変換します。 「論理」=「他者に物事を伝える5W1H」 「体系」=「その人の人生から得た経験値」 「論理体系」=「私の人生上得た知識を持ってして、他者に何かを伝える技術」  です。  もし他者から「理屈っぽい」と言われたら、「論理」のレベルを下げてあげましょう。その人が「小学生レベル」のか「中学生レベル」なのか「東大レベル」なのかで、論理は変えるべきです。(経験上、この三択です)  「体系」は不変でいいです。変えようとしても変えられません。むしろ、体系のうち「どの部分を太くするか」を考えるべきです。これはイコールで「個性」に直結します。  物語制作で変換すると、 「毎日膨大な量を書ける人」「何年も一作品を書き続けられる人」「毎回パターンを変える人」「緻密な調査ができる人」「詩を思いつく人」「構成に目が行く人」「文章に拘る人」など様々ですが、その中で一番のメリットを最大限に伸ばす事で、その人の「体系」を作ります。  ポイントは、その「深度」です。  膨大な量を書ける人、であったとしても、それが一か月だけの事であれば、その深度は浅いので薄っぺらい体系です。十年もの間、毎日二万字書いている人が居れば、その人は既にプロ級のはずです。  「体系」とは、その人の存在そのものです。この浅い深いで、人は評価の基準を大きく変えます。    長々と話しましたが、「論理体系」とは、物語にせよ、書評にせよ、人に何かを伝え、かつ「説得させる」力を持つための必須能力です。  文字を扱う人間として、このどちらをも疎かにしては、絶対に他者へ伝わりません。    でもって、この技術は実際の現実世界でも有効です。  またく見ず知らずの職場の人へ、または同じ血筋であれ「体系」の違う家族との対話に関してでさえ、互いの信頼を得る為には必須の素養です。    これは、原理的に間違いありません。    深夜テンションなので「原理的」なんて言葉を使いました。  次は、この「原理的」ついて触れます。        
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