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1.麻と君島の二回目の夏
「君島先生、当直お疲れ様です。今夜うちは比較的落ち着いてるので、リリーフ要請のあった小児病棟にナースが一人行きます。2年目の山部さんと私が残ります。」
ステーションのPCで明日のオペ一覧を確認していると、5年目ナースの戸越さんが言いに来た。
「小児また大変なの?」
「なんだかまた急変が出たみたいです。」
「そうか、わかった。」
「お願いします。」
ふいに白い横顔がよぎった。君はどうしてるだろうか。ともかく今夜を越せるように。小児病棟のある6階西を思う。
昨日は、救急から回されてきた交通事故の患者のオペが夜半に入ったのが、結構響いた。救急は水木だったから、あいつ気軽に回してきたか。日勤が本格的に始まる前に新鮮な空気が吸いたい。空中庭園に足を向けた。ドアを開けると、これからどんどん気温が上がってきそうな朝の光に包まれる。立ち込める濃い緑の匂い。夏だ。気持ちがうずく季節。働く前はもっとずっと季節が身近だった。今では、無影灯と循環している清潔な空気とに慣らされて、季節はカレンダー上のものとなりつつある。あれだけ毎日眺めていた海も、もう何年も見ていない。今年は久しぶりにまとまった休みをとって海に行こうか。そんなことを当直明けの頭で考えていると、だれか先客がいるのが見えた。それはいつも心の中にいるあの人だった。
「また急変が出たみたいです。」
と言う戸越さんの声がよみがえってくる。そうだ、昨夜小児は大変だったんだ。
そちらに歩みかけて、彼女が顔を覆っているのに気づく。いつも、どんなに遠くからでもよくわかる凛とした背中が、今日は陽の光に溶けていきそうなくらい揺らいでいる。やはり昨日はきつかったのか、辛かったのか。
手を伸ばせば触れそうな所まで歩いて行くと、気配を感じたようで彼女が顔を上げる。目は充血して、涙の跡が一筋ついたままだ。
「君島先生。」
「昨日は大変だったの?」
唇を噛みしめてうつむく君を支えたい。君がしてくれたあの夏のように支えたいのに、その資格が僕にはない。手を伸ばせばすぐそこに君がいるのに。抱きしめたいのに。僕はずっと佇むだけだ。
どれくらい時間が経ったのだろう。彼女が何とか声を絞りだして言う。
「昔、私の受け持ちだった患児だったんです。寛解して随分経っていたのに、昨日高熱と呼吸困難で緊急入院で入ってきて、意識も消失して本当に早かったです。無我夢中で、本当に無我夢中で。でも力及ばずでした。」
涙が一滴落ちる。
膝で重ねられた白い手を見ながら呟いた。
「何年働いてきても、大人になったつもりでも、辛いね。本当に。僕もまだ。」
涙がまた落ちる。
「私達はこの痛みをずっと抱えて働くんですよね。何をしてても、どこにいても、痛みが消えることはない。そういう仕事なんですよね、私達の選んだ仕事は。」
君は俯いたままぽつりと言う。
「そうだね、忘れることは無い。だから怖い、オペに入る時はいつでも、今でも。一つの命をつかの間預かるから。だから自分の全てをかける。それでも打ちのめされる時はある。そこには君が慰めてくれたあの夏のままの僕がいるんだ。」
沈黙が夏の朝の青空に広がる。僕達は何回こうした苦しみをくぐるのだろう。そしてその度に君を想うのだろうか。
しばらく経ってから、
「大丈夫、だいぶ落ち着きました。ありがとう、傍にいてくれて。今日また何件もオペですか。」
少し微笑みながら君が言う。君はいつでも僕より先に行ってしまう。ぎこちなく頷いた。
「先生のオペは本当にすごいって皆言っています。あの夏からずっと成長されたんですね。良かった、本当に良かった。先生が先生で。」
それ以上言葉を重ねられたら、どうしようもなくなる。
「僕は君を支えたい。傍にいられなくても、君の横に水木がいても。」
こんな言葉を吐けば、もう二度とこんな風に君を慰めることも出来なくなるかもしれないのに。それでも言うしかなかった。心の奥底から。
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