51人が本棚に入れています
本棚に追加
2.ナイトの初めての夏
救急での当直だった。一晩中治療に追われ、朝方、外科のステーションに戻る道すがらナース達が話しているのが聞こえた。
「ねえ、昨日小児大変だったみたいだよね。」
「うん、聞いた聞いた。色んな病棟からリリーフ行ったんだって。」
「急変だったみたいだね。このところ小児多いよね。」
「うわあ、紺野さんも大変だ。」
「うん、それが昨日急変した患者さんって、まさに紺野さんの昔の受け持ちだった子どもみたい。紺野さん、日勤で帰ろうとしてた所だったんだけど、残ったみたいだよ。」
「えー、それは辛いね。」
慌てて小児科に向かった。遠くからでも顔が見られるかなと思って。日勤の申し送り前のステーションを覗いてみたけれど、彼女の顔は見えなかった。丁度そこへよく知っている顔が通ったので声をかけてみる。
「池谷さん、おはよう。昨日小児大変だったって聞いたけど。」
「ああ、おはようございます。そうなんですよー、もうこのところ急変ばっかり。」
「昨日は、紺野さんが担当の子だったっんだって?今いないみたいだね。」
「ああ、そうですね。あんまりお疲れのようだったので、少し休んでいただいています。」
「そうなんだ、じゃあ病棟にいるのかな。」
「多分、いつもの所じゃないですか?空中庭園。」
「あ、そうか、きっとそこだね。」
「先生、もし先輩に会ったら十分休んでくださいっ、てお伝え願えますか?本当に辛そうだったんで。」
当直明けの疲れなんて感じなかった。麻。一人で俯くその姿しか浮かばなかった。エレベータに飛び込み、屋上のボタンと閉のボタンを続けざまに押す。やっと屋上だ。走って庭園に続くドアを開ける。どこにいるんだろう?いきなりの陽の光に目が慣れず、なかなか見つけられない。それでも無理やり目をこらすと、先の方の木々の間から誰かが見える。座って俯いている。麻だ。やっぱり一人で。
走りだそうとしたその時、風が吹いて木々が揺れた。そして見えた。緑あふれる庭園に、そこだけ氷の炎みたいな圧倒的な熱量をもって佇むもう一人が。一歩を踏み出す訳でも、手を差し伸べる訳でもなくただ佇んでいる。ただ見ている。でもその眼差しが全てだ。王子だ、物腰が優雅だ、と言われているけれど、俺は知っている。この人は必要とあらばいつでも獰猛な戦士になる。たった独りでも挑んでくる戦士に。一体いつまで、君島先生は想いを押しとどめているのだろう。その孤独な想いを。
今出て行くことはしたくない。二人には二人の時がある。それは大事な時間だろう。俺は、俺の時に、その時に麻を抱きしめる、全身で。俺の全てで。
病棟を出たのが10時過ぎで、やっと今電話がかけられる。一日中麻のことが頭から離れなかった。
「昨日大変だったって聞いたよ。朝、当直終わってすぐ小児に行ったんだけど、姿が見えなかったから、ごめんね、遅くなって。」
一気に言った。まるで何かを恐れるように。
麻はくぐもった声で、昨夜亡くなった患児が、自分の受け持ちだったこと、つらい治療を耐えてようやく寛解に入ってご家族と一緒に大喜びしたこと、誕生日にはいつもカードを送っていたこと、自分がその成長を見ることでどれほどの喜びをもらっていたか、をゆっくり話した。涙声ではなかったけれど、かすれ声だった。
「それなのに急変で、昨日入院してそのままあっという間だった。日勤が終わって、また明日って挨拶をしに病室に行こうとしたら、お母さんが駆け出してきた。意識が突然なくなったって言って。」
嗚咽に変わった。
「頑張ったのに。彼女が一番。私達も持てる力全部出したのに。」
「麻、待ってて。すぐ行くから。」
俺は携帯を切らずにそのまま財布を掴んで飛び出した。押し殺した泣き声だけが漏れてくる。アウディのアクセルを踏み続ける。幸い道は比較的空いていて、麻のマンションに早く着いた。オートロックを解除してもらって、ロビーに飛び込む。エレベーターのボタンをもどかしく押す。今朝の空中庭園へのエレベーターをちらりと思い出す。部屋の前に泣きはらした顔で、でも少し笑みを浮かべて麻が立っていた。走ってそのまま強く抱きしめた。病棟でいつもスタッフをまとめている麻。主任になってからは、時折手が届かないような厳しい表情を見せるようになった麻。それなのにふとした拍子に笑みが抑えきれずに、そのまま大笑いをしてしまい、照れた表情を見せることもある麻。その麻が、抱きしめると折れてしまいそうに泣いている。
「私達の仕事って、どこまで行っても辛いね。絶対に慣れない。年数を重ねたら、先輩になったら、主任になったら、って思ってたのに。」
髪をなでる。少しでもその悲しみが減るように、心を込めて。
「うん、慣れない。心が削られるようだ。そして絶対に忘れないと思う、その人達が生きたことを。それが見送る側の礼儀だと思うから。」
「咲夜は強いね。やっぱり。」
「強い?強い弱いの話じゃないと思うよ。ただ俺は生きていく。病に倒れた人を助け起こしながら。持てる力全てを使って。だから、もっとうまくなりたいと思う、ひたすらオペが。」
麻は俺の胸の中で静かに聞いている。少し落ち着いただろうか。顔を覗き込む。
「来てくれて本当に有難う。咲夜がいてくれることが私の救いなの。ずっと昔から、手が届かない存在だった頃から。あなたは金色の光だから。道を照らしてくれる。」
もう一度強く抱きしめる。俺は君と歩いて行きたい。悲しみを感じながら、それでも二人で確かな愛を感じて生きて行きたい。突然強い思いが湧いてきた。でも多分これは突然じゃなくて、ずっと心の底にあった思いだ。今までの日々に少しずつ積み重ねられてきた。俺達には俺達の歴史がある。
最初のコメントを投稿しよう!