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3.青山2
「呼吸器外科のフェローを一年間アメリカでやりたい。そのためにUSMLEに受からなくちゃいけないし、上の先生から紹介状を書いてもらわなきゃいけない。今の仕事に加えてやることが山積みだけど、でもやりたい。最先端の臨床技術を習得したいんだ。」
強い瞳で咲夜が言った。六年近く医師をやってきての気持ちだろう。傍で見ていても、咲夜が次のステップに行きたそうなのは良くわかっていた。でもこれは突然だった。あまりにも。
「わかった。じゃあ頑張んなきゃだね。ここが意地の見せどころですよ、咲夜さん。」
私はわざとおどけて言った。頭で考えるより先に勝手に口が動いていた。
「大丈夫?」
咲夜は心配そうに私の顔を覗き込む。勝手に決心しといて聞くな、バカ。
「勿論。」
出来る限りの笑顔で答えた。こらえろ、麻。たった一年じゃない。泣くのは家に帰ってからだ。その後は何を話したのか、あまり覚えていない。機械的に笑って、食べて、お休みのキスをして帰ってきた。ただ、送ると言う咲夜のことは振り切った。そこまでは我慢できないもの。
「お風呂、お風呂入ろう。」
お風呂は無論泣くのに一番良い場所だ。よく耐えた自分を褒めながら、お湯をためる。ラベンダーのオイルも垂らす。良い香りの湯気の中で涙がこぼれ落ちた。咲夜がいなくなるなんて。これからどうやって、私は病院で受ける傷を乗り越えて行けば良いんだろう。いつだって駆けつけて来てくれたのに。あの漆黒の瞳を見つめられなくなるなんて。金色の笑顔を見られなくなるなんて。いつでも温かく握ってくれた私の右手、抱いてくれた左肩はどうすればいい?ギュッと抱きしめる背中がなくなるなんて。涙が次から次から落ちてきた。高一で恋をして、七年間会えなくて、再会して、ずっと信じられない思いで付き合ってきた四年間。それだけの分の涙が落ちる。いいよ、泣いても、本当に咲夜が好きなんだから。
今までいつだって送ってきたのに、それを断った時のあの瞳。急に、月のような銀色の光が麻を包んだような気がした。一人で佇む時の君の光だ。俺を中に入れろ、どうして一人になるんだ。読ん年間一緒にいて、やっと一人で閉じこもることがなくなってきたのに。
泣きはらした顔でお風呂から出てきたら、着信が10回以上もあった。いつもだったら、何時でも構わずに大喜びでかけ直したのに。あの咲夜にそう出来ることを許されている幸せを噛みしめながら。でも、今日は出来ない。決心した男と泣く女だなんて、一番我慢できない構図だから。それに私は咲夜の決心を応援したいと思っている。ただ涙が出てくるのが止められないだけ。だから今日はもう話さない。
返信が来ないなんて、初めて携帯番号を教えてもらってかけた時以来だ。何回かけてもつながらない。言いたいことが何も伝えられないじゃないか。これじゃ高校生の時に逆戻りしたみたいだ。君に届かない。そして君はきっと一人で泣いている、昔みたいに。どうして俺を呼んでくれないんだ。
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