―夜の蜜林檎―

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 どうにか有希が陸橋の上に辿り着いた時には、男は手摺の上に立っていた。  スーツを着て、スッキリ整えられた髪型は一見爽やかそうに見えるのに、その瞳が冷た過ぎる。あれほど温かく優し気だった雰囲気が、昏く沈んだ闇の色で染まっていた。  自分の中にある彼の姿は中学生で止まっている。まるで別人なのに、分かってしまう。ずっと、追い求めていた姿だったから。 「何、してるの? 明、孝……さん」  一瞬、彼を呼ぶ名前を探した。幼い呼び方を躊躇う程、彼の身を包む空気が夜闇に馴染んでいた。そうして自分で呼んだにも関わらず、鼓動がドクドクと逸る、初めての感覚に戸惑う。  息切れの為だけじゃない、途切れ途切れの呼び掛けは彼に届いたらしく、男はブリキの玩具のようなぎこちなさで、有希を振り返った。 「ユ……キ……――?」  驚きに見開かれる瞳はどこまでも深い。有希の知っている穏やかさは皆無だった。 「飛びたいのか」 「そうだな。飛べたら行きたい所へ行けるかなと思っていた」  言いながら彼が見遣った先は、再び空だった。  こんな明るい場所では星なんて見えない。新月なのか、月さえも浮かばない寂しい夜空に、明孝は何を求めているのだろうか。 「そんなに飛びたいなら、俺が飛ばしてやるよ」  闇色の瞳に有希は嗤いかけた。  どうして明孝が飛ぼうとしていたのかなんて知らない。それでも、明孝が要らないという体なら、自分のカイロになってもらう。  この身の孤独を温める懐炉に。  そっと欄干の上に立つ明孝のスーツに手を伸ばして、追いついてきた友人を振り返り有希は微笑んだ。 「ゴメン、笠崎(かささき)。今日はこの人に相手してもらう」 「有希、何かヤバイ感じの知り合いじゃないの」 「とっくの昔に他人に戻った元義兄さん。たぶん大丈夫。だよな、明孝さん」  欄干の上から地上に降り立った明孝は縋りつくみたいにして有希を抱き締め、全く二人の話しを聞いていない。 「ユキ。ユキ――」  きつく抱き締めてくる腕。縋りつく温もり。  自分の中で、ドクリと、粘度の高い欲が滴った。 「気持ち良くなったら、嫌な事も寂しい事も忘れられるよ」  ――自分も、そうやって乗り越えているから。  堕ちるように、飛べばいい。  この体を抱き締めて、この身に熱を放って。  飢餓にも似た欲は、暗闇でもがく光のように有希の中に巣食う。
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