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保健医と柴犬
賑やかな声が廊下を行き交っていた。時々生徒が顔を出しては挨拶をしたり、写真を撮ろうと横に並ばされたりと忙しかった。それもつかの間。
すっかり静かになった校舎内、卒業式の日はあっという間に終わった。毎年のことだが、見送るだけというのは寂しいものだ。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
みなが帰った頃に顔を出した黒田は、久しぶりに見たせいかまた少し精悍になったようだった。十代の少年の成長は早いな、と思う。
「みんなあっという間にいなくなるな」
「寂しいですか?」
「そりゃな」
黒田は県内の工業大学に進学が決まっている。合格が決まったとき、真っ先に知らせに来た黒田をかわいいと思った俺は悪くない。
「俺も。明日からもうこうして顔を合わすことないんだなあと思うと」
「変な感じがするだろ」
「はい・・・先生」
呼ばれた俺はなんでもないふうを装って振り返ったけれど、実は緊張していた。身体自体が心臓になったみたいだ。
「約束、覚えてますか」
「うん」
「あの時の約束はまだ有効ですよね」
「ああ」
一年以上前のあの日、真剣な黒田の告白に俺は付き合えないと返した。生徒であるお前とは付き合えない、と。だから、
「もし俺が生徒じゃなくなってもまだ先生を好きでいたらもう一度返事をくれるって」
「フライング気味だけどな」
苦笑いを零す俺に「ちょっとズルは見逃して下さい」と黒田も笑う。
「先生」
「はいよ」
「先生」
「うん」
「先生」
「なんだよ」
「・・・眞幸さん」
急に名前を呼ばれてどきりと跳ねる。
「いきなり下かよ」
「いいじゃないですか」
ばつが悪そうな黒田がおかしくて笑うと拗ねたようにこっちを見る。結局笑いだして、それから真剣な顔に戻る。
「眞幸さん、好きです」
なあ、お前はあの時の約束があとはお前次第だったって分かってるかな。待っていたのは俺の方だったって。
前よりも大人びた目が不安そうに揺れている。俺はその顔に手を伸ばした。そして、
「俺も好きだよ」
近づいて触れたのはほんの一瞬だけ。目を閉じる暇もない、子供の戯れみたいなものだけど。
「ははっ、顔真っ赤」
「うぅぅ・・・」
かわいいやつめ、とからかったら体当たりの勢いで抱きつかれた。ぎゅうと抱きしめられて、ほんとかわいいやつ。
「誰かに見られたらクビなんだが」
「困りますね」
「なら離せ」
「はい」
「離れてねーよ」
「・・・はい」
しぶしぶ離れた黒田の頭を犬にするみたいに撫でてやる。
「明日晴れたら」
言いかけて、言い直す。
「晴れじゃなくてもいーか。明日どこか行くか。卒業祝いだ」
「先生じゃない眞幸さんと?」
「生徒じゃないお前と」
俺の中ではとっくに生徒なんかじゃなかったんだけどな、なんて言ったら黒田が、
「俺にとっては先生はずっと好きな人でした」
そう言って、幸せそうに笑った。
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