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日常へ続く
「で?人魚姫は王子様のキスでもとに戻るのか?」
「先生違いますよ、それはカエルの王子さまっすよ」
「そりゃ逆じゃねえか」
「人魚姫は王子さまを殺せなかったから泡になったんです」
「げ、マジかよ」
「で、それがどう林檎の出自につながるんすかセンセ」
病院の薄暗い廊下の奥にある病理室でレポートを作成する手を止めずに四方が言った。病理室の管理者である小嶋よりもあるじ然とした佐藤はコーヒーを飲んでソファでくつろいでいる。
「そういえば佐藤先生、師長さんが探していましたよ」
「げげげ」
「何かしたんすか」
「ちょっと身内が入院しててな」
それ以上は言わずに佐藤は、それで?と先を促す。
「まあ林檎さんが無事に帰ってきた、という話です」
「意味が分からん。じゃあお前は死なずに済んで、林檎は泡にならなくてよかったと?」
佐藤の言葉に小嶋は一度首をかしげるとまあそんなところですと大雑把に返した。
「四方、こいつの下で働くのは大変だな」
「今に始まったことじゃないんで」
この二人に変わっていると言われるのはいつもなんとなく腑に落ちない小嶋であったが、口にしたことはない。小嶋というのはそういう人物だ。
「じゃあ今度またお前の家に飲みに行くわ。林檎が無事に帰ってきた祝い」
そう言って佐藤が出て行く。その、林檎が無事に帰ってきた祝いという名目で集まった飲み会で、佐藤も四方も林檎の正体を知ることになるのだが、それはまだ知る由もない。
「センセもそろそろ帰らなくていいんですか」
四方に言われて時計を見ればもう少しで六時になろうとしている。小嶋は慌てて通勤用の鞄を手に取った。
「四方くんあとは」
「はいはいお疲れ様でーす」
顔を上げもしない四方の声に押されて小嶋は病理室を後にした。
「あ、小嶋先生」
「今日はちょっと遅いんじゃない?」
「本当だ。もう夕飯の時間じゃん」
忙しい手を止めて、向こうのほうをひょこひょこと歩いていく小嶋を看護師たちが眺めている。
「最近さあ、あたし小嶋先生かわいく見えてきた」
「うわ、それやばいって」
「やっぱり?はやく彼氏つくろ」
「はいはいあんたたち手を動かす!」
「はーい」
師長の声に看護師たちはそれぞれの仕事に戻っていった。
「ただいま」
ドアを開けると何かが焦げたようなにおいがする。小嶋が台所に入るとガスコンロの前に林檎が立っていた。
「失敗した」
林檎は、小嶋を見るとそう言った。フライパンの中を覗き込むと、中には焦げたもやし炒めらしきものが入っていた。
「食べられそうですよ」
心なしかしょんぼりしている林檎に、小嶋は言った。
林檎が小嶋の部屋に戻って一週間。近頃林檎は家事を手伝うようになった。とはいえ、元が猫であったのだから家事などできるはずもなく、結果的には小嶋の仕事を増やすことになっている。それでもその気持ちがくすぐったくて、小嶋は特に林檎を止めたりはしない。今も無表情ながらへたりと元気なく垂れた耳に小嶋は静かに悶えている。
「食べましょうか」
こっくりとうなずいた林檎に笑って、小嶋は焦げたもやし炒めをさらによそった。
林檎がばあちゃんと呼ぶ患者のことで「復讐」に来たのだと知ったとき、小嶋は仕方がないと思った。小嶋は病理医という、患者を直接治す医者ではない。もちろん、医師にもそれぞれに専門の分野があり、小嶋はこの仕事を自分の意志で続けている。それでも時々思うことがあった。医師でありながら自分は無力だ、と。
彼女のことを、林檎は名前をくれた人だったと言った。読み取りにくい表情からは、彼女のことをどう思っていたのかはわからなかったけれど、それでも林檎は彼女のために小嶋の前に現れたのだ。それは医師である自分に割り振られた使命なのだと小嶋は思った。
「……苦い」
もやし炒めを食べた林檎が低く呟く。しっかぽが力なく垂れている。
「案外大丈夫でしたよ」
口の中でじゃりじゃりいっているが、へたりと垂れた耳を見ながらその感触を無視する。
「うまくできない」
「明日は休みなので一緒に作りましょうか」
相当にがかったのか眉間にしわを寄せたまま林檎がこっくりとうなずいた。
「小嶋のために頑張る」
至極真面目な顔でそうのたまった林檎に小嶋は盛大に照れた。まあ見た目にはわからない上に唯一見ているのも林檎なのだからそもそもわかるものなどいないのだが。とにもかくにも小嶋はこのすっかり日常と化してしまった非日常が、あわよくば長く続けばいいなあと思っている。
さて、全然もてない三十代独り者の医師である小嶋と、すっかり家事にやる気を見せている林檎がお互いを意識しだすのは、まだまだ先のお話。でもまあそれは、またいつかの機会に。
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