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少し前の話
林檎が小嶋の部屋から消えたその朝から、話は少し、戻る。
「ビール持ってこいビール」
「はいはい」
立ち上がり冷蔵庫に向かった小嶋は両手に缶ビールを抱えて戻る。冷えた感触が服を通して体を冷やした。テーブルには茹でた枝豆やら豆腐の揚げ出しやらが並んでいる。小嶋の隣では林檎がまさしく猫背気味に背を丸くして日本酒を舐めていた。さらにその隣、小嶋の向かいに座る佐藤は所望したビールが届いてご機嫌にグラスに注いでいる。
「佐藤先生、飲みすぎないで下さいよめんどくさいから」
さらにその隣、林檎の向かいに座る四方がチューハイを傾けながら言った。
「新年くらい飲ませろ」
「呼ばれても知りませんよ」
「それこそ知りませんよ。たまの休みぐらい飲ませろっつーの」
四方の目の前で、病院から支給されているPHSを催眠術よろしく振ると林檎がひくりと反応する。そういうところは猫のようだなと小嶋は思う。
小嶋の狭くも広くもない部屋で新年会をしようと言いだしたのは、院内では変人の集まりで通っている病理科にもごく普通に顔を出す佐藤だった。同期であるが小嶋は一浪しているため佐藤のほうが一つ年下になる。が、まああまり関係なくフランクな付き合いをしている。
「酔い方がハンパなくめんどくさいって三階の松下さんが言ってましたよ」
「マジかよちょっとショック」
話しやすい雰囲気で背も高くなかなかハンサムな佐藤は患者にも看護師にも結構人気らしく、同期の医師ながら小嶋とは正反対である。二人とも同じ三十代の医師で独身、なのだが。
「見てくださいよセンセなんてノンアルですよ」
「小嶋はへんなとこで真面目だよな」
ノンアルコールのビールをちびちび飲んでいる小嶋は別にそういうわけでもないのだけれど、と思うにとどめる。
「実際この間、呼ばれたじゃないですかセンセ」
「ああ、夜中に」
「末期の肺がんだったか」
「そう」
佐藤がふっとグラスを呷った。
数か月前のことだ。テレビを前に缶ビールを持ってぼうっとしていた小嶋は、突然鳴りだしたPHSに飛び上るほど驚いた。すぐに来いと言われてとるものも取りあえず向かった病院で、遺体と向き合った。
「つい前の日までは割りと元気だったんすよね?」
「そうそう、ちょっと物忘れがあったくらいでしっかりしたばあさんでな」
「発見も遅かったですから」
癌細胞は淡々と拡大する。自分の体が敵に回るような感じだと小嶋は思っている。
「なんて名前だったか」
「池上美智子、さんです」
がちゃん、と音が鳴ってみんなの目が音をたどる。林檎の前で素焼きの徳利がひっくり返っていた。
「あーあー何やってんだよもったいない。小嶋、布巾」
佐藤がテーブルの上の皿を動かしながら布巾、布巾と言っているが小嶋は動かなかった。動けなかった。
「林檎さん?」
耳を隠すためにかぶっているパーカーのフードのせいで顔はよく見えない。けれど小嶋は林檎の態度に不審を感じた。
「ばあちゃんはなんで死んだの」
「ばあちゃん?お前池上さん知ってるのか」
勝手知ったる四方が持ってきた付近で、テーブルを拭いていた佐藤が林檎を見た。
「池上さんの直接死因は呼吸不全だな。ベースはかなり末期の肺癌だ。な?小嶋先生」
小嶋はうなずく。すでに治療できる状態ではなかった。医者ができたことといえば、痛みを和らげることぐらいだった。
「ものすごく痛いし苦しかっただろうに、にこにこしててな。薬使うとぼんやりするからってあんまり使いたがらなくて」
私は私のまま死にたい。そういって亡くなったのだと小嶋は聞いていた。
「ばあちゃんは病気で死んだ?」
「そう、です」
小嶋は注意深く林檎を見ていた。なぜか、気になる。らしくない。
「俺も好きに生きて死ぬんだー。四方、ビール持ってきて」
「いやです」
ぼんやりとしている林檎を小嶋は見ている。なぜか小嶋は、胸騒ぎがした。
それが林檎の消える二日前のことだった。
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