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さらに前の話
話はさらに遡る。林檎がまだ黒猫の姿の頃の話だ。ほっそりとしたしなやかな体を細い雨が濡らしていた。けれど林檎はそれに頓着したふうもなく湿った土の上に座って民家の座敷を見ていた。
家の中には黒い服を着た人間がたくさん集まっていて、低い単調な声が延々と何かを言っていたが林檎にはわからなかった。
「これはなんだ」
「葬式だね」
林檎の問いかけに、藪の中からひっそりと声が答える。
「葬式とは何だ」
もう一度問うた林檎の隣に、藪の中からうっそりと現れたもう一匹の猫が並んだ。
「死んだものを供養する儀式だ」
「くよう?」
「人間は死んだモノを畏れる。それは敬意であり侮蔑であったりする。そしてそのどちらであろうとも人間はもう出てきてくれるなと供養するのだ」
林檎はそれを聞き流しながら人間の集まりを見ている。
「ばあちゃんが死んだのか」
「そのようだね」
小さな四角の中で、彼女は生前と同じように笑っている。悲しいとかそういう感情を猫は持っていない。だから林檎はぼんやりと写真を見ていた。ただ悲しくはなかったがなんとなく心許ない感じがした。
と、急に騒がしくなって林檎の耳がひくりと動く。意識したわけでもないのに耳が音のする方へ向いている。
「あんたたちがもっと早くに見つけてくれていれば!」
「落ち着きなさい」
座敷の真ん中で、女がひょろりと背の高い男に掴みかかっている。あの女は確かばあちゃんの子供だ。興奮していて別の男に抑えられている。あの掴みかかられている人間は誰だろうか。
林檎からしれみれば巨大なその男はしかしひょろりと長く、道の端にある電柱みたいだった。無抵抗に揺さぶられている。
「あんたたちが死なせたのよ!」
「咲子やめないか」
「もっと早くにみつけてれば!」
「咲子、」
「しかも死んだ後にまでメスを入れるなんて、この人殺し!」
「咲子!」
叫ぶと同時に急にくずおれた女を、抑えていた男が支える。その間もひょろ長い男はずっと頭を下げたままだった。
気を失ったらしい女をほかの人間に任せると男ーーたしかばあちゃんの子供のつがいだーーはひょろ長い男を連れて部屋を出て行く。林檎がととと、と先回りして玄関に出ると案の定二人はそこに立っていた。
「悪かったね。今あれは動揺していて心にもないことを言ってしまった。家内に代わって謝らせてくれ」
「……いえ」
初めて聞いたひょろ長い男の声は頼りないと林檎は思った。
「発見が遅れたのは義母が病院に行かなかったせいだ。気丈な人だったからね。亡くなった後、解剖を希望したのも義母の意志だ。あんたらはなんも悪くない」
ただ、と女のつがいが続ける。
「そう簡単に割り切れるものじゃないんだ。家内だって本当はわかっとる。あんたらはよくやってくれた。けれど今はまだ整理できておらんのだよ」
「……はい」
「悪いが今は顔を見せんでくれ。申し訳ない」
つがいはそれだけ言って軽く頭を下げると家の中へ戻っていった。その間もひょろ長い男はずっと深く頭を下げたままだった。
「つまりどういうことだろうか」
「娘が言うにはあのひょろ長い男のせいだという。娘の夫はそうではないという」
「人間の言うことは難しい」
「自分らで複雑にしているのさ。複雑じゃないと生きられないと思っている。そう思っているところが複雑だな」
「わからない」
林檎はここで初めて隣にいる猫を見た。白と黒と灰色と茶色。それが交じり合った不思議な毛並み。そして人の目をしていた。
「わからなくていいお前たちは猫だ」
「あんたは違うのか」
「さあて」
曖昧にはぐらかされるが林檎は特にそれ以上尋ねることはしない。興味もないのだ。猫とはそういう生き物だ。
「わからないがばあちゃんが死んだのがあの人間のせいなら腹が立つ」
「そうか」
「よくわからない」
林檎は腹が立った。いつもこの家の縁側に座っていたばあちゃん。林檎はこの日当りのいい縁側が好きでよくここで丸まっていた。ただそれだけ。撫でられるわけじゃなく餌をくれるわけじゃない。それでも。
「なんだか腹が立つんだ」
「確かめてくるか」
隣のが言う。林檎の耳がひくりと動いた。
「何を」
「彼女が死んだのはなぜか」
林檎はよくわからず首をかしげる。しっぽもゆらりと揺れる。
「お前を人間にしてやる。だから確かめてくるがいい」
「そうしたらどうなる」
「どうもならないさ」
「そうか」
ただし、と隣のそれが言う。
「人間の声をお前にやる代わりにお前の声をもらう」
「うん」
「元に戻るにはあの人間の命と交換だ。あのひょろ長い人間を殺せば猫に戻る」
「わかった」
やがて林檎は意識が薄れていく。
「幸運を祈る」
遠くのほうであれの声がする。頭の奥がぼんやりとして目蓋が重い。目蓋を意識したのは初めてだった。そうか、これが眠いということか、と理解したころには林檎はすでに眠っていた。
目を覚ますと背中が冷たい。背中?背中というのはこんなところにあっただろうか。平衡感覚がおかしい。体が硬い。
見上げると暗い夜の空と、あのひょろ長い男の顔が見えた。
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