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帰らない理由、帰る理由
細い雨が降っていた。
アスファルトも、小さな女の子が持つ赤い傘も、放置された自転車も、路地裏の猫も。雨は等しくすべてを濡らしていた。
目を閉じていた林檎は手の甲に当たっていた雨の感触が消えて、雨が止んだ、と思った。
「風邪をひきますよ」
目を開けると傘があった。雨が止んだのはそのせいだったのか、と林檎は思う。すぐそばに生えている名前の知らない花が雨に打たれている。林檎に雨が当たらないようにと傘を傾けている小嶋の肩が濡れていた。
時間ができれば林檎を探して街を徘徊していた小嶋が彼を見つけたのはあの朝から五日後だった。ビルとビルの合間の狭い路地で、林檎は雨に濡れたまま座っていた。パーカーはしっとりと湿っていてこれでは本当に風邪をひいてしまう、と小嶋は急に心配になる。早く連れて帰らなければ、と。
「帰りましょう」
濡れて濃さを増した黒い夜のような前髪の間から、金色の瞳が小嶋を見上げた。その感情の読めない瞳はやはり猫のようだった。
「帰る理由がない」
「理由?」
「お前はばあちゃんを殺していない」
「……はい」
「だから帰る理由がない」
初めて部屋の前で林檎と出会った時のことを思い出す。彼は確かに小嶋の前に現れた理由を言っていたけれど、今の小嶋にはどちらでもいいことだった。それは林檎にとっての理由でしかないのだから。
「すでに君は僕の生活の一部なんですよね」
ご飯は二人分だとか、洗濯物が増えたとか、帰ってきたら「ただいま」とか。小嶋の生活に溶け込んでしまっていて、抜けないのだ。林檎がくったりと首をよこに傾けた。小嶋はその目を覗き込んだまま視線の高さを合わせるためにしゃがむ。
「君がふらふらと町を彷徨っていると思うと、僕は不安です」
林檎は猫でありながら、すでに猫ではないのだから。
「もし君に、僕の部屋に戻りたくない理由もないのなら」
「ないなら?」
お腹を空かせていないか、誰かに正体がばれていないか、事故に遭っていないか、寒さに震えてはいないか、風邪をひいていないか。そんな心配をしているぐらいなら。
「傍にいて下さい」
一緒にいたほうが安心だ。
「僕はこう見えて医者なので、それなりに余裕はあるのです。君ひとりぐらいなら全然」
大丈夫だ、と言おうとした小嶋の前で林檎が急にぐにゃりと立ちあがる。その拍子に額同士ががつんとぶつかって、いつかの再現だなと小嶋は微笑った。同時に立ちあがる。
「どうしますか?」
「ふむ」
「帰りましょう」
「……うん」
細い雨が降っていた。
アスファルトも、小さな女の子が持つ赤い傘も、放置された自転車も路地裏の猫にも、そして傘をさして歩く小嶋と林檎にも。
等しく雨は降り注いでいた。
「もやし炒めが食べたい」
「スーパー寄って帰りましょうか」
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