黒猫の林檎

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黒猫の林檎

「あれ、小嶋先生」 「珍しくない?なんか急いでる」 「最近いつもみたいよ」  忙しなく看護師たちが行き交うナースセンターの向こう、長い白衣を着た男がひょこひょこ歩いている。いつもならのんびりとあっちへふらふらこっちへふらふらしているけれど、今日は真っ直ぐに……比較的脇目も振らず廊下を行き過ぎる。実はあれも本人にしてみれば急ぎ足なのだ、ということは誰も知らない。  歩くたびに寝癖で翻る髪がひょこひょこ揺れていた。 「小嶋先生って結婚してたっけ」 「してないと思うけど」 「してないよ、ていうかできないでしょ!」 「確かに。たとえ医者でもあれじゃねえ」 「ほらあんたたちさぼってんじゃないの!」  はーい、と噂話に花を咲かせていたナースたちは師長の一喝で散っていった。  さて、彼女らの言う「たとえ医者でも」な小嶋はといえば先程と変わらずひょこひょこと人気のない方へと歩いていく。節電と紙の貼られた廊下は人気もなく薄暗くてなんとなく不気味だ。小嶋はその廊下の突当りにひっそりと存在するドアを開く。ドアに貼られたプレートには「病理室」とある。 「センセイお帰りですかー」 「うん」  短く答える小嶋は、がちゃがちゃと乱雑に物が置かれたソファからリュックをとると肩に背負う。 「おつかれっしたー」 「お疲れ様です」  いい加減な挨拶に怒るでもなく丁寧に挨拶を返すと、またひょこひょこと部屋を出て行く。病院を出てつっかけをぱたぱたいわせながら歩くこと十分。お洒落とボロのちょうど中間ぐらいのアパート。そのぐるっとらせんを描く階段を上がって突き当り。手書きで「小嶋」と書かれた表札のドアを開けると……。 「遅い」 「す、すいません」  鋭い声。  部屋の主人(あるじ)たる小嶋よりも主人然としたそのひとは、髪はどれほど光が差しても黒い闇色、吊り上がったアーモンド形の目は金色。そしてすぐ近くを通った小嶋をぺちりとはたくのは、 「腹が減ったから飯」 「すぐに用意します」  髪と同じ闇色の、しっぽ。  耳が、やはり闇色をした人とは違う三角の耳が、ひくりと動いた。 「今文句を言っただろう」 「い、言ってません」 「小嶋、早く飯」  ため息を吐きかけて小嶋は危うく止める。彼は、非常に耳がいい。ため息は厳禁。というのがこの一週間で小嶋が学んだこと。あと彼が鯖の水煮が好きなことも学んだことの一つだった。  彼、ほぼ人の容姿をした、しかし実はその正体は黒猫であるらしい「林檎」が小嶋の前に現れたのは一週間前。 「俺は仇を討ちに来た」  突然現れた彼はそう言って小嶋を指差したのだった。
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