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 指先に触れる柔らかい髪をふんわりとサイドへ流した。左右のバランスを見ながら鋏を入れて長さを揃える。きれいに整えすぎても不自然になるから、全体のフォルムに違和感がなくなるように慎重に、けれど思い切りよく。正面にある大きな鏡を見ながら、うん、よく似合っている。 「これでどうかな」  すっかり変わった鏡の中の自分を見たまま、右を向いたり左を向いたり。手鏡を渡してくるりと椅子を回すと、髪がふわりと浮いて整髪剤の甘いにおいが香った。 「うわっ後ろは結構短いね」 「大丈夫ですよ。このぐらいの方がすっきりしているし、伸びてきてもきれいな形になりますから」  言いながらまた椅子を戻した。大きな鏡の中のお客さまは左右を向きながら髪型をチェックしている。その顔は新しい自分に満足したようにきらきらとしていた。 「そっか。志波さんが言うなら間違いないね」 「もちろんです」  笑顔で返しながら、肩からクロスを外して落ちていた髪を払う。 「ありがと、すごく気に入ったよ」 「満足いただけて嬉しいです」 「これでやっと……次の恋ができそうかな。単純だけどね」  はにかんだように笑うと切ったばかりのショートボブが揺れた。カラン、と軽快な音とともに店を出て行く背中はピンと伸びて明るい。こういう時いつも俺は美容師という仕事にやりがいを感じる。 「それじゃあ明日も頑張りましょう」 「はい」  片付けの終わった店内で、店長が言った。俺ともう一人のアシスタントである七海ちゃんが声を出して返事をする。これは店長である町田さんの方針だ。背が低くて、よく一回りも下の七海ちゃんに可愛いなんて言われているけれど、芯のしっかりした女性だ。三十代半ばで面倒見のいい、魅力的な人だと思う。 「志波くん、明日もお願いね」 「はい」  店長は、こうやって笑っている分には結構可愛らしいのに、怒るとかなり怖い。厳しい分、今まで辞めて行った人もいたけれど、間違ったことは言わないから俺は尊敬している。この店から独立していった従業員ともいまだに交流が深い。  かくいう俺も前にいた美容室からここに移ってからもう3年になる。今は店長と俺、それからまだ学校を卒業して1年ほどの七海ちゃんの三人で店を回している。それなりの仕事は任されていて、この日も俺が最後に店の鍵を閉めた。 「よ、お疲れ」  声に背を向けたまま、密かにため息を落とす。鍵がかかっているのを確認してから振り返ると、仕事帰りらしいスーツ姿の黒崎が立っていた。ズボンのポケットに入れていた携帯電話を確認すると、9時を大きく過ぎている。 「いつからいたんだよ」 「5分くらい前かな」 「さっさと帰れ」 「そう言うなって。せっかく待ってたんだから飲みに行こうぜ」  明日も早いと言うのに、と思うけれどきっと流されてしまうのはわかっていた。諦めて俺は先に歩き出していた黒崎に続いた。 「そんで課長がマジでくそでさ」 「はいはい」 「聞いてるか?」 「聞いてる聞いてる」  俺はワイングラス片手に適当に相槌を打つ。雰囲気のいいカウンターだけのバーにはワインが豊富にそろえられていて、黒崎と飲むときにはだいたいここに来ている。静かにグラスを磨いているマスターは客の話には口を挟まないタイプだし、若者のグループが来るような店でもないから落ち着けると、かなりの常連になっていた。 「そんで課長がマジでくそで」 「さっき聞いたよ」  黒崎はかなりアルコールが回ってきているのか、上司への単純な悪口がループしている。自分もここらへんでやめないと、明日起きれなくなるのは必至だ。 「マスター」  財布から適当にお金を出すとカウンターに置いた。多めに置いていくと、次の時にはまたいいワインを出してくれる。それもまたここを気に入っている理由だった。俺は隣で子供みたいな悪口を繰り返している黒崎を無理やり立たせた。 「ほら、帰るぞ。その辺でタクシー拾うから」  ぐでんとして重い体を支えながら大通りまで歩く。そこまで行けば客待ちのタクシーがいくらでも捕まるだろう。黒崎の体を引きずっていると、急に腕が首に回って来た。 「……俺お前の髪が好き」  さらりと髪を梳かれて、俺はぞくりとした。アルコールを含んだ熱い息が首筋にかかる。 「飲みすぎだ。さっさと帰って寝ろ」 「お前んち泊めてよ。明日休みだし」 「俺は朝から仕事なんだよ」 「鍵はちゃんと閉めてくって」  足は大通りに向かって歩き出したいのに、脳が付いていかない。 「なあ……哲平」  これはきっとアルコールのせいだ。そうじゃなければ絶対にこんな、 「好きだよ」  こんな愚かなことはしたくないのに。
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