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店についたころには十時を回っていて、黒崎は不機嫌な顔で俺を待っていた。いつもならその顔に文句でも言うところだったが、今日は素直に謝った。
「なに、なんか今日は機嫌いいんじゃねえの」
「うんまあ、そうかな」
「いいことでもあったのかよ」
「いい仕事ができたんだよ」
「ふうん」
カウンターに並んでワインを傾ける俺を黒崎が覗き込んでくる。俺は実際気分が良かったからワインもいつもより美味しく感じた。吉井さんに会う前はなんだか鬱々としていたのに、それもすっかり霧散している。玄関に置いてきた野菜をどうしようかと考えても楽しい。一人暮らしが長いこともあって、料理は比較的好きな方だ。
「俺は全然楽しくないんだけど」
「どうしたんだよ」
「嫁と喧嘩してさ」
「どうせお前が悪いんだろ」
「そんなわけで、今プチ家庭内別居中で寝室を追い出されており、リビングで独り寝なわけですよ」
「ああそう」
俺は目を合わせないようにしてなるべくそっけない返事をする。
「だから泊めろよ」
「ダメだ。明日は朝早いから。たまには一人で寝るんだな」
「そんなこと言うなよ」
カウンターに肘をついた黒崎が、反対の手を伸ばして俺の髪に指を通す。俺はそれを片手で払った。
「ちゃんと帰れよ」
「なに、お前恋人できた?」
「いや全然」
「ならいいじゃん」
「は?ならお前はどうなんだよ。お前には奥さんがいるのになんで俺と会うんだよ」
「だってお前は友達じゃん。浮気とは違うだろ」
あっけらかんと言い放った黒崎に、俺は言葉をなくした。こいつはいったい何を言ってるんだ?
「お前とはさ、基本気が合うし飲んでても楽しいし。嫁と飲んでもこうはいかねえだろ」
「じゃあお前にとって奥さんは何なんだよ」
「嫁は、家そのものだよ」
「家?」
「俺の帰る場所だよ。楽しいからとかそんなものじゃなくて、最終的に帰るところ、一心同体。お前も結婚したらわかるって」
俺はだん、とグラスをカウンターに置くと自分の代金だけ置いてさっさと店を出た。後ろから慌てて追いかけてくる足音が聞こえる。俺は一切スピードを緩めないまま大通りまで出た。
後ろから腕を掴まれて勢いよく振り返った。
「ちょっと待てって。なに急に怒ってんだよ。意味わかんね」
「意味がわからない?」
俺はその一言で頭の中が急激に冷えていくのを感じていた。
「お前は俺が何で怒っているのか分からないのか?」
「は?」
「もういい、いい加減俺も限界だ」
結婚したらわかる?こいつは何を言っているんだろうか。無神経にもほどがある。今まで我慢してきた分が全部溢れ出した。
「俺は奥さんの穴埋めじゃないんだよ。いい加減にしてくれ」
「穴埋めなんて言ってないだろ」
「お前の都合のいい時だけ呼び出されるのも、もううんざりなんだよ」
通行人が怪訝そうにこちらを見て通り過ぎていく。これ以上ここにいてへんな噂が立っても困る。俺の住むマンションの住人が通らないとも限らない。
「そんなことしてないだろ」
「してるじゃないか。この間だって俺から連絡した時は来なかった」
「仕方ないだろ。嫁の誕生日だったんだから」
「じゃあお前は一度でも俺の都合を考えたことがあるのかよ」
いつも黒崎のしたいように合わせていた。黒崎は、既婚者だから。
「もういい。俺からは連絡しないから、お前ももうやめろ」
「なんだっつーんだよ。行事ごととか記念日とかそう言うのが大事なんだよ。結婚してないお前にはわからないかもしれないけど……」
「だったら俺の気持ちがお前にわかるのかよ!」
俺はそのまま踵を返す。本当に限界だった。黒崎にとって俺はいったい何なんだろうと考えて、いや違うとすぐに否定する。この関係が何も生まないことはわかっていたことだ。ろくでもない関係だということは。
タクシー乗り場まで来ると黒崎が後を追ってくることはなかった。自分から切っておいてそのことに虚しさを感じる自分に嫌気がさす。
「追うのはいつも俺ばっかり」
マンションに着くと、倒れ込むようにエレベーターに乗る。発熱しているみたいに全身が重く怠かった。鍵を開けて靴を脱ぐのも億劫で、のろのろと部屋に入ると鞄を放り投げた。缶ビールを二本空けたところでチャイムが鳴った。
「めんどうくさいな」
無視しようかとも思ったが、投げやりな気持ちになって重い腰を上げた。立ち上がると足元がゆらりと揺れる。思いのほかアルコールが回っているようだった。
「すみません、こんな遅くに。帰ってきた音が聞こえたので」
ドアを開くと立っていたのは吉井さんだった。スウェットのようなラフな格好で、手には本を持っている。
「これさっき言ってた野菜を使ったレシピ本で」
吉井さんが手を差し出す。何かを言ってくるが、俺の頭には全く言葉として認識されない。俺は差し出されていた手を掴んだ。
「もうダメです」
「え?」
「もういやだ……」
掴んだ手は解かれなかった。そのまま手を引いて中に戻る。相手は何か言っているけれどどうでも良かった。ドアが閉まると押し付けて。
キスをした。
驚いて目を見開く吉井さんを視界から追い出すように目を閉じる。角度を変えながら息を吸った。舌をからめとって唾液が満ちる。
「し、ば……さん」
これ以上、名前を呼ばれないようにともう一度ふさぐ。ようやく顔を離すと再び何かを言おうとした吉井さんを制して、口を開いた。
「俺を、助けてください」
「志波さん……?」
「助けてください」
体から力が抜けて崩れ落ちるように目の前の体に寄りかかる。この前と同じように、しっかりした腕が俺を支えた。
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