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4
昨日のことはすべて覚えていた。何もかも。けだるい体を起こすと、素肌をシーツが滑る。部屋には俺一人しかいなかった。
クローゼットから服を取り出し着替えると、ベッドの下に落ちた服を拾い集めて洗濯機のスイッチを押した。冷蔵庫から炭酸水を取り出してグラスに注ぎレモンを絞る。一気に呷ると少しだけスッキリした。時計を見ると家を出なければならない時間まで三十分しかない。
「朝ごはんを食べる時間はないか……」
最低限、顔を洗って髪をまとめると靴を履く。ふと下駄箱の上に本が乗っているのに気が付いた。昨日、彼が来たのはこれを届けることが理由だったのだと思い出した。もはや自分に嫌悪しか感じられない。いつもより重く感じられるドアを、体重を乗せてどうにか開いた。
「あ」
鍵を閉めていると背後から声が聞こえてきて、一瞬固まった。ぎしぎしと音が鳴りそうなくらいぎこちなく振り返ると、吉井さんが立っていた。今から出勤なのだろうリュックを背負っている。俺の第一声は情けなく朝の喧騒に溶けた。
「お、はようございます」
「おはようございます」
「今から仕事ですか」
「そうです」
「……そうですか。それじゃあ」
「あの」
ぎこちなくかわした会話の挙句、とっとと立ち去ろうとした俺を吉井さんが呼び止める。
「今日は何時に仕事が終わりますか」
「あー、多分、9時には家にいると」
「そうですか」
それだけ言うと俺を追い越して吉井さんは歩いて行った。少し猫背気味の後ろ姿を見送りながら俺は朝一番の深いため息をついた。
「志波くん」
「はい」
ちょうど担当していたお客様が帰って、休憩室でミネラルウォーターを飲んでいると店長が入って来た。
「今日はもうフロアに出なくていいから。お客さまがお帰りになったら掃除と片付けだけお願い」
「え」
手を止めて店長を見ると、いつも通りの顔をしているが、そのトーンは低い。
「もちろん、なんでこんなこと言われてるか自覚はあるよね?」
自覚はあった。今日はまったく仕事に身が入っていない。先程帰られたお客さんも満足はしていたが、最初に聞いた希望通りではなかった。
「すみません。でも大丈夫です、次はちゃんと」
「ダメです。今日はもう出ないで」
「けどまだカットのお客様が」
「私と七海ちゃんで回すから」
もう一人の従業員である七海ちゃんは、まだ独り立ちしておらずカットは担当しない。基本はカラーリングやパーマしかしていない。俺が抜けると店長が全てカットに入ることになり、同じ時間にお客さまが二人はいることはできない。
「仕方ないよ」
「けれど」
「あのね」
店長が俺の言葉を強い口調で遮る。普段から俺たちがミスをすればよく叱る店長だったが、こんな口調になったのは数えるほどしか知らない。記憶に新しいもので言えば、七海ちゃんが片付けていた鋏を落として近くにいたお客様に危うく当たりそうになった時だった。
「私たちがどうしてきちんと国から認められた資格を持っているか。当然わかっているわよね?」
「はい」
「私たちはお客さまに直に触れるの。しかも刃物を向けているの。それを許されるのは私たちがこの仕事をすることを認められたからなの。だから心ここにあらずではダメなの」
「わかっています。だから」
「そんなぼーっとしたまま私のお客様に触らないでって言ってるの」
俺はそれ以上何も言えなくなって黙り込んだ。店長は一つ息を吐くと続けた。
「さっきのお客様だって、最初に言われたご希望とは違っていたでしょう。手が足りないってだけでそんな仕事を許すわけにはいかない。今日は一日雑務をやって頭を冷やしなさい」
「はい。すみませんでした」
店長は控室から出て行った。俺は店長が出て行ったドアに頭を下げたまま悔しい思いをしていた。俺が初めて店に出たのはこの店ではなかったが、その頃だって技量が足りないながらも、手抜きをしたことなんて一度もなかった。前の店の店長とそりが合わず、新規にオープンするこの店を紹介されて、俺はいっそう励んだ。女性ながらに一人で切り盛りする店長は、技量の面でも申し分なく尊敬できる人だった。
だからこそ悔しい。絶対に私事と仕事を混同するようなことはしなかったのに。
「大丈夫ですか?」
入れ替わりに入って来た七海ちゃんが気遣わしげに俺を見る。俺はそれに微妙な顔を返すことしかできなかった。
「ほんとうに最悪だ……」
結局、仕事が終わるまでなんとなく集中力を欠いていた俺は、情けない気持ちで雑務に励んだ。
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