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 チャイムが鳴って時計を見ると、9時半だった。たぶん彼だろうと思って玄関のドアを開けると、案の定、吉井さんが立っていた。 「夜にすみません。これを渡そうと思って」  申し訳なさそうな顔で差し出されたのはタオルだった。綺麗に畳まれたそれは見慣れたもの。 「昨日、借りました。勝手に引き出しを開けて使ってしまいました。その、体を、拭くのに」  言いよどんだ吉井さんの手からタオルを受け取った。悪いのはこちらの方なんだからそんな顔をしないでくれと、どこまでも自分勝手に思った。 「洗ってありますが、気持ち悪かったら捨ててください。新しいものを買ってお返ししますから」 「いや、大丈夫、ありがとう。というか」  とりあえず上がってくださいと勧めると、初めは固辞していた吉井さんはためらいながらも靴を脱いだ。 「コーヒーでいい?」 「はい」  コーヒーメーカーのスイッチを入れながら、リビングで行儀よく坐っている吉井さんには聞こえないように息を吐いた。言い訳をしないといけない。あんなこと、いくらなんでも節度がなさ過ぎる。  リビングに戻り吉井さんの前にカップを置くと、意を決して口を開いた。 「あの」 「すみませんでした」 「え」  勢いで謝ってしまおうと思っていた俺は、吉井さんの口から先に出たそれに肩透かしをくらった。見れば吉井さんはわずかに眉を寄せた険しい顔をしている。 「昨日の夜、あんなことをしてしまって」 「いや、あれは、俺の方が悪い。どう考えても俺が悪かったんだ……本当にごめんなさい」  言いにくそうに俯いた吉井さんに俺は慌てる。酔っていたとはいえ、意識ははっきりしていた。確かにあの時は黒崎のことで誰かにすがりたい気持ちでいたけれど、それは言い訳にはならない。断罪されるべきは俺の方だ。 「ちょっと、辛いことがあって……。そんなのまったく理由にならないんだけど、言い訳にすらならないけど、どうしようもなく、むなしくて」 「そう、なんですか」  吉井さんがそれきり黙ると、部屋の中は静かになった。俺もそれ以上言うことがなくて、自分の部屋なのに居心地が悪くなる。意味もなく座りなおしたりした。 「本当に、すみませんでした。取りあえずそれだけ言いたかったので」  そう言ってもう一度頭を下げると、吉井さんは小さく頷いてから立ち上がった。部屋を出る背中を見ながら、俺はほっとしているのを悟られないように彼の後に続いた。  玄関で靴を履き終えた吉井さんが振り返って、下駄箱に寄りかかっていた俺はなんとなく姿勢を正した。 「あの」 「はい」  真面目な顔をした彼は、玄関の段差のせいで俺を見上げている。 「俺は、そんなに気にしてませんから」 「え?」 「いや、気にしてないと言ったら変ですけど。志波さんに対して怒っているとかそういうことはありませんから。それと」  言いよどんだ吉井さんをまじまじと見る。髪を切ってはっきりと見える目は、片方が二重で、もう片方が奥二重だった。その黒い瞳がまっすぐに俺を見ている。それはまだ、あまり知らない彼の率直で正直な性格を表しているように思った。 「もし辛いことがあったなら次は話してください。その、セックスを、するのではなくて。俺はあなたの話をちゃんと聞きますから」  僅かに首を曲げた仕草が、お辞儀だったと気づいたときには吉井さんは部屋を出ていた。俺は部屋に戻ると、結局口をつけなかったカップの中のぬるくなったコーヒーを口にした。気が付くと、コーヒーは小さな波紋を作っていた。 「なんで泣いてるんだろ」  哀しいわけじゃない。別に吉井さんの言葉に感動したわけでもない。けれどなぜか俺は深く安堵していた。  あの日、吉井さんが出してくれた美味しいコーヒーとは違う安い味のそれ。もう一つのカップは空になっていた。 「明日も頑張ろう」  俺は小さく呟くと、残りのコーヒーを飲み干した。
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