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いつもよりずっと慎重に鋏を持つ手を動かしながら午前中の仕事を終えた。初めてお客さんの髪を切った時のような緊張感を持って、けれどあの頃よりは心にゆとりがある。それは案外と新鮮な気持ちだった。
「今日は顔色がいいね」
コンビニで買った昼ご飯を食べていると、店長が俺の顔を覗き込みながら言った。
「そうですかね」
「昨日はひどかったからさ」
「ご迷惑をおかけしました」
座ったまま深々と頭を下げると、店長はカラカラと笑った。朝出勤すると、挨拶をするよりも先に店長に顔を覗き込まれて、その間俺はずっと緊張していた。
「君が仕事以外でなにをしていようと自由だけど、そういうのは仕事には持ち込まないように」
「……はい」
何も知らないはずの店長に見透かされているような気がして、俺は知らずどきりとしていた。
「ま、酒には付き合うからさ」
「自分が飲みたいだけじゃないですか」
バレたか、と笑う店長に呆れたふりをして俺は密かに感謝した。
昨日の今日で、黒崎から連絡はなかった。これがいい機会だと思う。あいつとは本当に気が合ったし、この不毛な関係さえなければ俺たちは気の置けない友人だった。けれど一度持ってしまった関係は無かったことにはできない。好きなのかと聞かれたらよくわからないけれど、きっと顔を見れば抱き合ってしまう。今さらただの友人に戻れはしないのだ。
「しばらくお酒は控えます。店長もそうしたほうがいいですよ。もういい歳なんだから」
「言ったわね?」
「仕事仕事」
今は余計なことを考えずに集中しようと軽く首を振ると、まだ何か言ってくる店長をかわして仕事に戻った。
黒崎から連絡が来たのはケンカ別れした日から一週間後のことだった。いつもと同じ調子で今日は会えるかと言った。
「無理だ」
「なんでだよ」
装っている様子もなく本当に不思議そうに聞いてくる黒崎に、怒りを突き抜けて脱力した。それは俺の言葉が黒崎に届いていないと言うことだ。電話越しでもあいつが飄々としている様子が目に浮かんだ。
「悪いけど、先約があるから」
「先約?誰だよ。お前んとこの店長?」
「違う」
先約があると言うのは口実ではなくて、本当に今朝したばかりの約束だ。
「誰でもいいだろ。お前の知らない人だよ」
「誰だよ」
「ともかく、もう約束の時間だから切るな」
「あ、おい」
有無を言わせずに電話を切ると、俺は少しいつもの意趣返しに溜飲を下げた。
家に帰ると荷物を置いてラフな服に着替えてから部屋を出た。それから隣の部屋のインターフォンを鳴らす。さほど待たずに部屋のドアが開いた。
「遅くなったかな」
「いえ、ちょうど準備ができたところだったので」
どうぞ、と促されて俺は吉井さんの部屋に足を踏み入れた。
酔った勢いで吉井さんとセックスをしてしまってから一週間が経つ。あんなことをしてしまったにも関わらず、吉井さんは普通に接してくれた。いや、今まではただの隣人だったが、今は朝廊下で会えば控えめながら笑顔で挨拶してくれるし、もらった野菜を店長にもお裾分けしたら喜ばれたと伝えたら、また持ってきますと嬉しそうだった。今日は、食材はたくさんあるのだしせっかくだからと一緒に鍋をすることにした。
「そう言えば、前にもらった野菜ですけど、うちの若いスタッフもほしがってましたよ。最近一人暮らしを始めたらしくて、なかなか丸々一個は買えないからって」
「いくらでも言ってください。俺一人じゃとても消費できなくて」
吉井さんのご両親は喫茶店をしていて、そこで出している料理に使う野菜は自分たちの畑で作っているらしい。それでも息子に送ってくると言うことはかなり本格的にやっているのだろう。
「吉井さんの周りにはいないの、欲しがってる人とか。俺ばっかりもらってるのもなんだか悪いから」
いい具合に煮えてきた白菜を皿に移す。しっかりと味の染みたそれは白菜の元々の甘さと相まって、とてもおいしかった。
「あまり知り合いがいなくて」
「仕事場とかは?」
「あんまり」
少し俯いた吉井さんを見て、悪いことを聞いたかなと思う。実はこちらに移ってきたのは最近だと言っていたから、あまりまだ知り合いはいないのかもしれない。
「もともと、人付き合いは苦手で。仕事も取りあえず行って働いて帰るだけで親しい人もいません。地元に帰れば少しはいますが」
「恋人は?」
「いません。いたことがありません」
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