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 タクシーから降りるとマンションの前に男の人がこちらを見て立っていて、それが店長の同居人だと気がついて俺は慌てた。店を出る前に家に電話をしていたから、わざわざ待っていてくれたんだろう。完全に体を預けられている俺が手を離すわけにもいかなくて困っていると、近づいてきたその人は「すまんね」と笑ってぐにゃぐにゃになった店長を引き取っていった。 「タクシー代、こんくらいあれば足りるかな」 「いや、こんなにもらえません」 「いいからもらっといて、いつも迷惑かけてるし。弱いくせに飲むんだよなあ。……香、起きて自分で歩きなさい」 「無理」  無理じゃないだろ、と肩にもたれかかった相方を猫の子にでもするように無造作に撫でて俺に向き直った。 「いい歳して酒量を分かってないんだよな。まあ飲ませちゃってんのは俺のせいかもだけど」  自嘲気味の呟きにどう応えたものか、俺は曖昧に笑みを返した。いつも店長から聞く恋人の話は愚痴半分のろけ半分みたいなもので、ケンカをしても結局二人の間には信頼関係があることが伺える。ただ、なんらかの決着を付けないパートナーに不満とか不安を感じているのも確かなんだろうと思う。 「めんどうじゃなかったらこれからも付き合ってやって」 「こちらこそ、いつもすみません」 「面倒ってなんだ長谷川このやろう。志波君はそんなこと言いませんー」 「うるせえよバカ。近所迷惑だって」  店長を支えながらごめんと手を合わせると、人懐こい笑顔を向けて俺を見送ってくれた。待たせていたタクシーに乗り込んでしばらく後に着信音が鳴り出して、ポケットからスマートフォンを取り出した。ディスプレイの表示を確認してから着信を切る。そして電源を落とした。  店長が話してくれたこと、しっかりと恋人を支えて手を振る姿を反芻しながら、ちゃんとしようと俺は思った。   久しぶりにご飯でも食べようと誘ったのは俺の方だった。相変わらず吉井君の視線にくすぐったい気持ちにはなったけれど不愉快ではなかったし、結局顔を合わせる頻度は高いのだから気にしても仕方がないと割り切った。ただ、彼と話すのは楽しかったから、やっぱりケジメは付けようと思った。 「ごめん」  大皿いっぱいに敷き詰められた餃子を前に、俺は思い切って頭を下げた。実家から送られてきたという餃子セットのタレを作っていた吉井君は不思議そうに首を傾けた。 「何がですか」 「うやむやにしてたけど、吉井君が俺のことを、その……好きだって言ってくれたこと」 「ああ、いいんですよ別に。元々返事が欲しいと思っていたわけじゃないので」 「いや、そういうわけにはいかない」  誰とも付き合ったことがないと言っていた吉井君が、誰かに告白したことがあるとは思えない。人との付き合い自体に消極的だった彼が、ようやく踏み出した一歩を変な形にうやむやにするのは嫌だった。そして彼がそれでいいと言うのなら、友人という関係を続けたいというのが正直な気持ちだった。 「ちゃんと答えを出さないのは失礼だから」 「そんな、考えるなんてとんでもないです。これは俺の勝手な気持ちで」 「だとしても、知ってしまったらそれはもう吉井君だけのものじゃなくて、俺のものでもあるんだ」  友人関係も恋愛も、一人ではできないものだ。そして感情は一方通行ではなくて、双方向のものだ。どんなものであれ、向けられた感情を無視することはできない。少なくとも俺はそうだ。 「はっきりさせないっていうのもありなのかもしれない。でも俺は今までそうやってきて一つ、大切な関係を壊してしまったから」 「……黒崎さんのことですか?」 「うん」  黒崎が何を考えているのか、俺は考えるのをやめてしまった。それだけじゃなくて、自分が黒崎に向けている感情が何なのか、それさえ考えるのをやめてしまった。そのせいで黒崎との関係を行き止まりにしてしまったんだ。曖昧な関係は、俺みたいな優柔不断な人間には向いていない。 「吉井君との関係を、そんな風にはしたくないんだ。好きだと言ってくれたのはすごく嬉しかったし……。同じ気持ちは返せないけど、俺も吉井君のことが好きだから」  答えを返さないままずるずるとお隣さんを続けることはできるだろうと思う。けれど、どちらかがこのマンションを出てお隣さんという関係性がなくなったとき、日常生活に流されるうちに言い訳をしながら連絡を取らなくなることがあるかもしれない。俺はこの小さなわだかまりを言い訳にはしたくなかった。 「せっかくできた縁を蔑ろにはしたくないなと。まあ、そう思った理由はいくつかあるんだけど」 「理由、ですか」  そんな大層な話じゃないんだと、珍しく真面目に話している自分に照れて俺は少し温んだビールを呷った。
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