103人が本棚に入れています
本棚に追加
/33ページ
「哲平」
背中に感じる冷たい感触が夏の暑さを和らげていた。開け放したドアからは生温い風と蝉の声が流れ込んできている。体育館の壇上で寝転がっていた俺は、名前を呼ばれて体を起こした。黒崎が落ちていたバスケットボールを拾って指先でくるくると回しながらこちらに歩いてきていた。
「みんなは?」
「今さっき帰った。結構マジでやったから汗だくなんだけど」
「俺もやりたかったのに」
明日から夏休みに入るため部活動はみんな休みで、俺は友人たちと誰もいない体育館でバスケをしながら黒崎を待っていたが、その友人たちもついさっき帰っていった。
隣に並んだ黒崎が叫びながら背中から倒れると、持っていたボールがステージから転がり落ちていく。タン、と高い音が連続しながら響いてやがて小さくなっていった。
話は聞いていたから、進路のことだろうと当たりをつけると「そうだ」と返ってくる。
「何で進路とか決めなきゃいけないんだろうな」
「とうとう言われたか白紙の進路希望」
「うぜえよな」
「仕方ないだろ。もう三年なんだから」
「やりたいこともないのに大学行くってどうよ」
三年になってすぐに出した進路希望には適当な大学を書いたという黒崎は、夏休みを前にした再調査でやりたいことが分からないと言って名前だけ書いてあとは白紙のまま出したらしい。子供っぽいことをすると思ったけれど、正直に言えば少し羨ましくもあった。
周りはほとんどが大学を希望していたから、俺も適当に合格ラインの大学を書いて出していた。でも本当のところは。
「俺だってやりたいことなんかないけど」
未来のことなんか何も考えていない俺はせいぜい用紙の項目を埋めるのが精一杯で、それ以上のことなんて考えてもいなかった。なんだかただ適当に用紙を埋めただけの俺よりも、白紙で出した黒崎の方がよっぽどちゃんと考えているような気がした。
「なんか適当に大学行って、サラリーマンになって、結婚して、ジジイになって死ぬんかな」
「それはやだな」
「だろ?ああもうずっと夏休みならいいのに」
本当にそうだと思いながら俺も黒崎の横に倒れると、隣から手が伸びて来た。外から吹きこんでくる風が黒崎の制服のシャツを揺らしている。最後の夏休みが始まろうとしている。
「伸びてきたんじゃねえの、髪」
「ああ、そうかもな」
「そろそろ切れば?どうせ自分でやってんだから」
「そうだな」
伸びてきた襟足の髪に絡む黒崎の指がじとりとした肌に触れて、俺は密かに身震いした。何事もなく離れて行って、安心したような物足りないような心持ちになる。そんな俺の様子に気づかない黒崎は何かを思いついたとばかりに、ガバリと体を起こした。
「美容師とかどうよ」
「は?お前が?」
「違うって。哲平がだよ」
「俺が?」
「上手いじゃんお前。俺の髪も切ってくれただろ。あとほら去年の夏休みに髪染めてもらったのもきれいだったし」
確かに髪をいじるのは嫌いじゃなかった。セットするのもそうだし、伸びてきたなと思ったら自分でカットもする。長期休みになるとドラッグストアで買ったヘアカラーで染めたりもしていた。
だからといって、それは素人の域を超えない。
「大学進学するって言ってるだろ。大体、美容師ってどうやってなるんだ」
「さあ?調べたことないし。調べれてみればいいんじゃねえの」
「だからならないって」
「お前が美容師になったらさ、タダで切ってもらえるだろ?」
屈託なく笑う黒崎を、それが目的かと呆れた顔で見やる。今日はウチ寄ってくだろと言って先に歩き出した黒崎を追って、俺もステージを飛び降りた。
最初のコメントを投稿しよう!