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カラン、とドアベルがなって外の空気が流れ込んできた。読んでいた雑誌から顔を上げるとシャツにジーンズというラフな格好の黒崎が眉間にしわを寄せて立っていた。
「いらっしゃいませ」
「……どうも」
「こちらへどうぞ」
黒崎の機嫌には頓着せず、レジカウンターを出ると回転椅子をくるりと回す。相変わらず不服そうな顔の黒崎はしばらく突っ立っていたが、諦めたように椅子に座った。
「今日はどうしますか」
「別に……任せる」
「少し短くしますか。襟足が伸びてきてるので。合わせてサイドも短くしますね」
ぶすっとした顔で反応のない黒崎の返事を待っていると、ややあってわずかに頷いてみせた。俺はいつも通りのやり方でカットの準備を始めると、使い込んで手に馴染んだ道具を手に取った。
慎重に鋏を動かしながら鏡でバランスを見ていく間に何度か黒崎と目があったけれど、お互い口を開くことはなかったから店の中は静かだった。今日は店には俺しかいないし、そもそもが定休日だった。
黒崎とのことでまだやるべきことが残っていた俺は三つのことを決めた。その一つが黒崎の髪を切ることだった。店長に理由を話したら休みの日に使っていいと言ってくれたので、俺はその厚意に甘えることにした。
前髪を切るために梳き鋏に持ち替えて前に回る。黒崎は目を閉じると、代わりに口を開いた。
「……髪切ったんだな」
「うん。だいぶん伸びてきてたからな」
決めたことのもう一つが自分の髪を切ることだった。これは気分転換とかの類で、七海ちゃんのカットモデル代わりに、結べるほどの長さだった髪をばっさりと切ってもらった。色は店長の見立てで赤系のブラウンだったのをイエロー寄りに変えた。七海ちゃんの腕も含めて店長の評価は上々だ。
「やっぱり心機一転とかそういうのに髪を切るっていうのはいいんだよな」
「失恋でもしたか」
「まあそれに近いよ」
俺が笑いながら答えると、目を開けた黒崎はようやく少しだけ笑った。
「いいよな髪型も色も好きにできるってのは」
「普通はここまで自由にはできないだろうしな」
「学生の時はさ、夏休みになると染めたりしたじゃないか」
「懐かしいな」
初めて他人の髪を染めたのは、夏休みに俺たちが好きだったバンドのライブに行くのに、そのギタリストと同じ髪の色にした時だ。俺は中学生の頃からドラッグストアで買ったヘアカラーを使っていたから慣れていて、その時も自分と黒崎の髪を染めたのだ。
「お前、昔から自分でやってたじゃん。髪も自分で切ったりさ。そう思うと天職だよなあ」
「そうやってあの時もお前が言ったんだよ」
「何を」
「美容師になればって」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
やりたいことなんてない、やれることなんて何もない俺がこの仕事を選んだのはあの日、黒崎が言った一言がきっかけだった。どうやって資格を取るのか、どんな学校へ行けばいいのか、近くに学校はあるのか、調べれば調べただけ興味が湧いて、夏休み明けに俺は進路を変更することを担任に告げた。
あの一言が無ければ、きっとこの仕事はしていなかっただろうと思う。
「全然覚えてねえなあ」
「お前に言われてなったのに、そういえば美容師になってからはお前の髪を切ってなかったなと思ってさ」
「へえ」
本気で憶えていないらしい顔の黒崎が、昔からそうだったと懐かしく思えた。
友人たちの中でも黒崎は一緒にいた時間が一番長くて、美容師の専門学校に行ったのは最たるものだったけれど、それ以外にも俺が悩んだ時や迷った時には黒崎に相談することが多かった。その全てが正しかったわけじゃないし従ったわけでもないけれど、それでも親や教師よりも影響力があったのは間違いないと思う。俺にとってはそれぐらいの存在だった。
「お前は何にも憶えていないな」
「そんなことねーぞ」
「言いっ放しで後のことなんて全然覚えてないんだ。それなのに俺はいつもお前の言葉に振り回されてる」
「哲平は人が良すぎるんだ」
「お前が言うのかよ」
「俺だから言うんだろ」
肝心なことに触れないまま穏やかな時間が過ぎて行く。もしかしたらこのままでも大丈夫なんじゃないか、なんて甘いことを考えてしまう。別に今のままの関係で遠からず、近からず……。
手の中で鋏がシャキンと音を立てた。
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