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指を離すと、ピンポーンと軽快な音が響いた。約束の19時、俺はドアの前で部屋の主が出てくるのを待つ。間もなくドアが開いて吉井君が顔を出した。
「こんばんは」
缶ビールの入ったコンビニの袋を掲げて見せると、吉井君は笑いながら招き入れてくれた。
美味しい山菜が送られてきたからどうですか、とドアにメモが貼ってあったのがつい2日ほど前のこと。昨日の夜、仕事の帰りにマンションの前でばったり会ったので、お相伴にあずかろうと今日の約束を取り付けたのだった。
部屋に上がると、すっかりと準備が整っていた。香ばしい油の匂いが食欲をそそる。
「天ぷらにしてみました」
「いいね。ビールじゃなくて白にすればよかったかな」
「まだたくさんありますから。びっくりするぐらい送られてきたので」
「ほんとに羨ましいよ」
俺の実家は似たような家が並ぶ建て売りの一軒家で、特記事項のないサラリーマンの家庭だった。だから自分の家で採れた野菜やお店で出しているというコーヒーなんかを送ってもらえる吉井君が羨ましかった。
「お店は夫婦二人でやっているので、子供の頃は一人だけで食べるご飯も、残り物が晩ご飯になることも嫌でしたけど、離れてみるとありがたいなと思います」
「そうだなあ。離れてみないと分からないっていうのはあるかもしれない」
「家を出るときは不安しかなかったけど、今は少し楽しいです」
先週の休日に仕事場の同僚と出かけたという話を聞きながら、初めて会った頃とはずいぶん変わったと思う。やっぱり彼にとって家を出ることはいいことだったんだろう。この感じならそのうち恋人だってとんとん拍子でできるんじゃないかと、おれは調子のいいことを考えている。
話が部屋の更新に移ったところで引っ越しのことを吉井君に話していないことを思い出した。
「そういえば、まだ言ってなかったけど引っ越すことにしたんだ」
「え」
吉井君は驚いた顔で口に運ぼうとしていた箸を中空で止めた。
引っ越しを決めたのは黒崎と話をする少し前のことだった。黒崎と物理的に縁を切ろうと思ったのが一つと、あとはあの部屋には思い出が多すぎて引きずりそうな気がしたのが実は一番大きな理由だったりもする。
「まだ部屋は決めてないんだけど、今月か遅くても来月中には出ようと思ってる」
「それは、黒崎さんのことで?」
「もちろんあいつには新しい部屋は教えない。というかもう連絡もとらないって、ついこの間話をしたんだ」
「そう、だったんですか」
「そうすることができたのはいろんな要因があるんだけど、その大きな一つが吉井君なんだ。だからお礼言っとく。ありがとう」
「俺なんて何も……」
吉井君と出会ったことは大きなきっかけになったし、彼の前では誠実でありたいと思ったのも確かだ。
「いいからもらっといて。タダだからさ」
「そんな……こちらこそ、ありがとうございました。志波さんがいなかったら俺はきっと今でも何も変わらないままでした」
「それこそ俺なんてなんにもしてないよ。ほんと思い返すととんでもないやつで申し訳なくらい」
出会いはロクでも無いものだったし、今思い出しても恥ずかしくなる。それでも吉井君と出会えたことは俺にとって幸運だったし、相手にもそう思ってもらえているなら素直に嬉しいと思う。
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