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「おいしい」
口にしたコーヒーは、もやもやと考えていたいろんなことが吹っ飛ぶくらいにおいしかった。酸味が少なくて苦味は濃い。とても俺好みの味だった。
「すごくおいしいですね」
「自分で、淹れているんです」
「自分で?」
「あの、豆から」
「すごいですね。好きなんですか、コーヒー」
素直にすごいと思った俺は声を上げた。それに吉井さんはまるで弁解するような口調で答えた。
「実家が……あの、喫茶店で、小さいころからコーヒーを」
「へえ、やっぱ味がわかるのかな。すごく俺の口に合うからびっくりして」
そう言うと、吉井さんは急にがちゃんと音を立てて湯呑を置いた。何か気に障ったのかと俺は不安になる。
「あの、」
恐る恐る窺うと、吉井さんは俯いたままさらに聞き取りにくい声で言った。
「……よかったです」
よくよく見ると、顔の半分くらいを覆う前髪と古めかしい大きなメガネの隙間がわずかに赤くなっているのがわかった。なんだ。
「ちゃんと感情が出るんじゃないか」
「え?」
「あ、いやなんでもないです。こっちの話」
「そうですか」
どうやら分厚い前髪に阻まれているだけで、ちゃんと表情はあるらしい。表情が見えないから分かりにくいのはもったいない気がした。髪の量が多いから、少しすかしてふわっとパーマをかけて色も明るくして……。
「あ、そうだ」
俺は思わず大声を上げる。吉井さんが向かい側でびくりと肩を震わせた。
「お詫びをさせてください」
「へ?」
わかりにくいけれど、やっぱりよく見れば驚いているのが分かった。髪型を変えればきっともっとよく分かるはず。
「昨日の晩のお詫びと、今日の朝のコーヒーのお礼」
俺は尻ポケットから財布を出すと、中からお店の名前の入ったカードを取り出してテーブルに置いた。
「えっと……?」
「俺、この店で美容師やってるんです」
「はあ」
吉井さんはまだよくわかっていないのか、曖昧な返事をする。俺はカードをすっと相手に向かって滑らせた。おずおずとカードを手に取った彼に「よかったら、髪を切らせてもらえませんか」と俺は言った。
「……え?」
「お礼をさせてください。これでもそれなりに指名してくれるお客さんもいるんですよ」
「そう、なんですか」
「決まった美容院とかありますか?」
吉井さんは緩慢に首を振った。聞けば近所にある安い床屋に行っていると言う。
「じゃあぜひ、いらしてください。今日のお礼だからお代はいただきませんから」
「いや、そういうわけには」
「きっと切りがいがあると思うんですよね。すごく意欲を掻き立てられると言うか……もちろん嫌じゃなければ。気が向いたらでもいいし」
反論されないうちに俺は少し冷めたコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「ごちそうさまでした。本当にありがとう」
「いえ」
「それじゃあ、また」
無口なお隣さんに見送られて俺は部屋を出た。背中でドアが閉まると、俺はふうと大きく息を吐いた。彼はお店に来てくれるだろうか。あのコーヒーは本当に美味しかった。
「今日もいい天気だ」
俺は大きく伸びをすると、ようやく自分の部屋に戻った。
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