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「なんだか上の空だね」  鋭く貫くような言葉を受けて、俺は鋏を動かしていた手を止め顔を上げた。鏡越しに値踏みするような視線に捕まって、仕方なしに「そうですか?」と惚けたけれど見透かされているような居心地の悪さを感じる。この美容院に通うお客さんの中では多分、最年長の徳田さんは半年に一度カットに訪れる。 「なんとなくそんな気がしただけだよ」 「徳田さんには嘘をつけませんね」 「そうさ、私はなんでもお見通しだから気をつけな」  そう言ってフンと鼻を鳴らした徳田さんは、しかめっ面をした。いつも不機嫌そうな顔をしたこのおばあさんは話しかけてもつっけんどんで、話さなければ話さなかったで黙ってるんじゃないと叱られる。ちょっとした粗相にも厳しい言葉が投げつけられるから、うちで一番若い七海ちゃんも入ったばかりの頃に思い切り泣かされている。常連ではあるけれど、少々やりづらい客でもあった。 「そんな不景気な顔を客に見せるんじゃないよ。なんかあったのかい」 「そんなことはありませんよ」  苦笑いを返すと徳田さんは「はっきりしない男だね」と言い捨てた。これ以上何も言われないようにと俺は無心で手を動かした。 「お疲れ様」  徳田さんを見送って大きく息を吐いた俺に、店長が笑いながら言った。 「毎度のことですが、疲れました」 「徳田さんは難しいお客さまだからね」 「緊張しますよ……」  客足が切れたのをいいことに、俺は椅子に腰かけた。店長が俺の肩を軽くたたいてから掃除を始め、慌てて立ち上がった。 「俺がやりますから」 「いいから座ってな。疲れたでしょ」 「いやでも」  いいからと押し切られてそれじゃあと奥の休憩室へ入った。  この美容院は、店長と俺、それから若いスタッフが一人だけのこじんまりした店だ。それでも町の人が多くやってくるし、ローカル雑誌に載ってからは時々遠くから訪れるお客さんもいてそれなりに流行っている。今日は予約が少なかったこともあり、俺と店長の二人だけ。午前に二人、午後に徳田さんが来ただけで珍しく静かだった。 「吉井さん来ないな」  独り言を呟いて、思わず苦笑いをこぼした。  お隣さんの家で一晩を明かして一週間がたったけれど、吉井さんはお店に来ていない。店の電話が鳴るたびにもしかして、と思うがお隣さんからの電話はなかった。実はここしばらく仕事をしながらもなんとなく上の空だったのはそのせいだ。徳田さんは鋭い。  あの日、半ば言い逃げのように店に来てくださいと言って部屋を出たけれど、やっぱり迷惑だったかもしれない。あまり人づきあいが得意そうではなかったし。 「絶対髪を切ったほうがいいと思うんだけどな」  余計なお世話か、と自嘲してそろそろ戻ろうかと立ち上がったところで店のドアベルが鳴った。 「予約していないんですけど……」 「大丈夫ですよ。ちょうど空いてますから」  聞き覚えのある声に慌てて顔を出すとそこにいたのは吉井さんだった。俺はなんだかずいぶん待ち焦がれていたかのように、急いでお店に出た。 「いらっしゃいませ。よく来てくれましたね」 「あれ、お知り合いの方?」  思いがけない来客に声を上げると、店長が俺と吉井さんを見比べた。吉井さんは居心地悪そうに突っ立っている。 「俺の部屋のお隣さんなんです」 「ああ、前に言ってた方ね?」 「そうです。ちょっとお世話になったのでお礼のために」 「じゃあ担当は志波くんでいいね」 「もちろん。吉井さんさえよければ」  俺と店長が吉井さんを見ると、遠慮がちに頷いた。どうぞと促して椅子に座ってもらう。ラックに置いてあったヘアカタログを手に取ると、メンズのページを開く。 「何かご希望はありますか」 「いや、あの」 「こんな感じとかどうでしょうか」  モデルの写真を一つ一つ指さしていくが、なかなか決まらない。お任せで、というのは簡単だけれどできるだけお客さん本人の意思を尊重するのが店長のやり方だ。 「短くしますか?」 「えっと」 「お客さまは、髪にボリュームがあるから、形は今のままにして少し軽くしてはいかがでしょうか。もともと柔らかい質感だから、少しふわっとさせるような感じで」  なかなか決めかねている吉井さんに、店長が言った。吉井さんは少し考えるそぶりをしてから頷いた。 「それでお願いします」 「任せてください。志波の腕は私が保証します」  その言葉に吉井さんは小さく笑ったようだった。俺は思いがけない店長の言葉に奮い立つ。店長の言葉を嘘にしないように、そして、何よりお客さまに喜んでいただくために。俺は道具をセットし始めた。
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