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家に帰ると時刻は9時を回っていた。それでも今日は早い方だ。いつもの癖で携帯電話を確認すると黒崎からメールが入っていた。今から飲めないかという内容に、この間は断ったくせにと思うのに、今から行くと返事をしている自分に呆れてため息をついた。どうせ晩ご飯も食べていないしと誰にしなくてもいい言い訳をして部屋を出た。
「出かけるんですか」
鍵を閉めていると隣の部屋のドアが開いて吉井さんが顔を出した。俺は驚いて鍵をとり落とした。それを拾いながら答える。
「これから晩飯に」
「そうですか」
話が途切れて沈黙が下りる。こうしていても仕方ないと口を開こうとしたとき、吉井さんが口を開いた。
「料理はしますか」
咄嗟のことに一人暮らしなのでそれなりには、と答えると吉井さんは「少し待っていてください」といったん部屋に戻っていった。それからもう一度顔を出すと、今度は段ボールを持って出てきた。そうして差し出されたのはジャガイモ。それから大根とにんじんや緑の葉物に、ともかく野菜がこんもりと入っていた。
「これ、実家から送られてきたんですけど、一人じゃ消費できなくて」
「いいんですか?」
「よければ」
俺はそのずっしりとしと重い段ボールを受け取った。
「助かります。店長、うちの店の店長にも分けていいですか?きっと喜ぶと思うので」
ずっしりと重いそれを受け取ると、吉井さんはほっとしたように表情を緩ませた。やっぱり表情がよく見えるようになった方がいいと思う。それだけで人を寄せ付けない雰囲気が少なくなっていると思う。
「髪型、気に入りませんでした?」
「え?」
「俺はすごくいいと思ったんですけど、あんまり満足してなさそうな顔だったから。もし気に入らなかったのならもう一度、」
「そんなことないですよ」
キョトンとした顔で吉井さんが首を傾げた。
「とても、よくしてもらったと思います」
「本当ですか?」
「はい。ただ」
「ただ?」
少しためらった様子を見せたあと、吉井さんは切り出した。
「俺みたいな人間に、こんなおしゃれな髪形は似合わない気がして」
「まさか!」
俺は驚いて思わず大声を上げた。まさかそんなことを考えていたとは思いもしなかったからだ。
「店長も言ってましたよね?本当によく似合ってますよ」
「そうでしょうか」
そう言って戸惑った表情もはっきりと見える。前は厚い前髪に阻まれてよく見えなかったわずかな目の動きや些細な眉の動きが作る感情の揺れがよく見える。よくわからない人だと感じていたのはそれも大きかったのだと思う。
「うん、すごくいいと思う」
自信を持って断言すると、吉井さんは照れたように頭をかいた。
「もしよかったらまた、うちの店に来てください」
「……はい」
それから野菜の使い道を少し話してから玄関前で別れた。俺は一度閉めたドアをもう一度開けて野菜の段ボールを玄関に入れると、鍵を閉めてマンションを出た。途中で携帯電話が鳴ってディスプレイを見るとさっき連絡があった時から大分時間が経っていた。
「もしもし」
「おい今どこだよ。お前のうちからここまでってそんなに遠かったか?」
「悪かったよ。ちょっと話し込んでて」
「店で?」
「いや……ちょっとな。もうすぐ着くから」
言ってから電話を切ると、もったいないけれど通りでタクシーを拾った。相変わらず待たされることが嫌いなのだ。いつだって俺が待たされる。それでもこの日は気分がよくてあまり気にならなかった。
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