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「匠さん、俺……」
「匠」
喋ろうとしていた俺を聞き覚えのある声が遮った。振り返ると、駅の入り口に立っていたのはあの時に見た匠さんの、別れた奥さん。
「仕事はもう上がれるの?」
「……ああ」
「外で、待ってるから」
「寒いから中に入ってた方がいい」
「相変わらず、優しいね匠は」
大丈夫、と笑って駅を出ていった。あとに残された俺は呆然と立っている。
「この、あと?」
「ああ、彼女と話し合うことにしたよ。お互い納得できてなかったからきちんと向き合おうと思って」
「話し合う……」
「実は一人くんのおかげなんだ」
「俺の?」
「自分の、恥ずかしいと思うこともちゃんと話すことができる君に影響されて。かっこつけてる場合じゃないなと思ってね」
入口から人が入ってくる。駅舎にかかっている時計を見ると、電車の発車時刻まで15分ほどだった。ぞろぞろと次の電車に乗る乗客たちが集まってくる。
「だから彼女と話そうと決心できたんだ。ありがとう」
「俺が」
あんなことを言ってしまったから、匠さんはあの人と話し合うことを決めてしまった?一体何を話すの?どういう結論を出すの?よりを戻してしまう、の……?
「あれ、一人じゃん」
名前を呼ばれて振り返ると、髪を短くしてボーイッシュな服装の女の子が俺を見ていた。
「ユキちゃん」
「久しぶりだねー。そういえば彼女は?別れたっきり?」
「ああ、うん。今は、誰とも」
珍しいねと笑う彼女の方を向きながらも、匠さんのことが気になって曖昧に返事をする。それに気が付いたのか、ユキちゃんが俺と匠さんを見比べる。
「あ、もしかして話し中だった?」
「いや、うん」
「じゃあ、一人くんそろそろ仕事上がりだから戻るね」
「あ、」
匠さんは奥さんのところへ行ってしまう。やっぱり俺ではダメなんだ。やっぱり、俺では―――。
「……ユキちゃん、今カレシは?」
「いないよ。別れちゃった」
「そう、なら」
事務所に戻ろうとしていた匠さんが振り返る。俺はその視線を避けるように背中を向けた。
「ユキちゃんの家行ってもいい?」
「いいよ」
彼女がからりと笑う。改札が開いて、乗客が一気に流れ込む。俺は彼女の手を取って、定期券を見せると、出たはずの改札を戻っていく。
結局、誰かを真剣に好きになっても報われないんだ。
「一人くん」
手を引いたままさっき降りた電車に乗り込む。その背中に視線を感じたまま。確かに聞こえた声を無視して。
「結局、真剣になってもだめじゃんか……」
ひとりぼっちはいやだよ。
呟いた声は車内の騒めきに紛れて、誰にも届かなかった。
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