八駅目

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八駅目

 俺の前を歩いているスーツ姿の女の人が明るい赤色の鞄から定期券を取り出して、改札に立つ駅員さんに向ける。駅員さんは夜遅い勤務にも関わらず、疲れた顔一つ見せずに笑顔で「ありがとうございました」と返した。  その駅員――匠さんがゆっくりと振り返って目が合った。 「おかえりなさい」  前と変わらない優しい顔を見て、俺は少し泣きそうになった。 「匠さん、あの」 「話したいことがあるんだ君に」  見たこともない真面目な顔で匠さんが言った。俺はそれが怖かったけれど、声もなく頷く。そうしたら、匠さんはちょっとだけ笑ってくれた。 「もう少しで上がれるから待っていてくれるか?ちょっと待たせると思うから……近くに深夜までやってるファミレスがあるから」 「んーん。外で待ってる」 「でも今日は寒いから」 「いいんです」  寒いくらいのほうが頭が冷えていいかもしれない。ファミレスで待っていたら逃げ出してしまいそうだった。 「じゃあなるべく早くするな」 「いやそんな急がなくていいから!」 「そういうわけにはいかないよ。用事があって引き止めたのは俺なんだから」 「でもでも」  自分のせいで急がせるのは申し訳なくてさらに言い募ろうとする俺の髪を、匠さんがくしゃりと撫でる。そして、離れる。触れられたことにか、手が離れてしまったことにか、心臓がまたきゅんとなる。  例えば。  女の子とのセックスも、浮気がバレて泣かせてしまったときの悲しい気持ちも、親に構ってもらえないことも、誰かに嫌われることも。どれも繰り返されると慣れてしまったけれど、これだけは。  心臓が締め付けられるようなこの感覚だけは、慣れない。 「君は優しいな」 「まさか、そんなこと」  今までいろんな女の子と付き合ってきた。一年以上続いた子もいれば、3日で終わった子もいた。それどころか一晩一緒に過ごしただけの子だっていた。そのどの女の子にも、優しいなんて言われたことがなかった。自分では女の子には優しくしなければいけないと思っていたから、怒ることもしなかったし、もう付き合えないと言われればその通りにした、けれど。 「……俺はやさしくなんてないです」  それが優しいのとは違うんだと気付けたのは、匠さんに出会ったからだ。 「なるべく早く戻るから」  匠さんはいつだって思ってもみない発見をくれるのだ。  それは少し前のこと。まだ、告白まがいをして匠さんを避けるようになる前のことだ。名前を呼んでもらえるようになって、すっかり浮かれていた頃。何かの拍子にその名前の話になった。 「一人くんて変わった名前だよね」 「そうですね」 「兄弟がいるんじゃなかったっけ」 「兄が」 「お兄さんもそんな名前?」  兄は名前を(いたる)という。高いところまで到達するように、という意味でつけられた名を持つ兄は、その名のとおり大学を首席で卒業しだれもが知る新聞社に入った。 「へえ、すごいね」 「だから俺には期待感はないの」 「期待だけが愛情のものさしではないと思うよ。じゃあ、君の名前は?」 「何が?」 「名前の由来だよ」  昔、小学生の頃に自分の名前の由来を調べる宿題があった。その時に聞いているはずだけれど全然覚えていない。 「わかんない」 「聞いたことがない?」  丁寧にガラス戸を拭いていた匠さんが、その手を止めて俺を見る。 「聞いたことはある気がするんだけど」 「忘れちゃったか」 「うん。きっとたいした意味なんてなかったんだと思う」  一人、という名前に反して俺は一人でいるのが嫌いだ。友達の少ない俺はほとんど正と梅ちゃんと一緒にいたし、そうでなければ女の子と一緒にいた。一人は淋しいからいやだ。もしも一人でも生きていけるようにとつけたのだとしたら、それは失敗している。  そんなようなことを言えば匠さんは、 「一人でも生きていけるように、なんて願う親はきっといないよ」  本当のところどういう気持ちでつけたのかはわからないけれどと前置きして、 「ひょっとしたら、誰かの特別な一人になるようにって、そんな願いがこもっているのかもしれないよ」  そう言って、笑った。
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