23歳

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23歳

 温まってきた4月の風が、きまぐれに前髪をさらっていく。月が変わってからは晴れの日が続いていて、日を追うごとに暖かくなっていた。それでも風はまだ冷たくて、僕は身を縮める。ふと目の前を黄色の蝶が通り過ぎて、足を止めた。なんだか懐かしい気がして目を細める。  大学を卒業すると、僕は地元に帰った。帰ると決めてすぐに、内定をもらっていた企業は辞退し、慌てて地元で就職先を探した。辞退の申し入れに会社へ行くと、人事の担当者には散々嫌味を言われたけれど、ただひたすらに頭を下げるだけだった。求人情報を漁ってなんとか見つけたのは、内定が決まっていたところよりもずっと小さな会社だった。面接をしてくれた人がとてもいい人で、ほとんどその場で決まったようなものだった。僕みたいにぎりぎりで内定を辞退した人がいたらしく、本当に運が良かったのだ。何があってもこの会社で頑張ろうと思っている。  そうして大学の四年間を過ごした部屋を引き払い地元に帰ってきた僕は今、誠二くんのマンションへ向かう道を歩いている。 「これ持ってってよ」  自室で荷物を整理していた僕が顔を上げると、母が部屋に入ってきた。手には小さな手提げを持っている。 「誠二くんに」 「まさか赤飯?」 「もちろん」  僕はため息をついて、ダンボールに荷物を入れていた手を止めた。会社の近くのマンションで一人暮らしを始めたのだけれど、こっちに帰ってくるときにはまだ部屋を決めていなかったから、いったん全ての荷物を実家に送っていた。引越し業者を入れるのも勿体ないと、借りている部屋が実家に近いのもあって必要なものだけ先に運んで、あとは夕ご飯をたかりがてら少しずつ取りに来ていた。 「赤飯とか別にいいのにもう」 「おめでたいときは、ちゃんとお祝いするの。大人になるとなかなかないんだから。誠二くん、前住んでたところと変わってないよ」 「海は?」 「今日は仕事の飲み会だって。はいよろしく」  無理やりに手渡された赤飯を持って、僕はもう一度ため息をついた。  自転車は通勤に使っているから実家にはもう置いていない。僕は散歩がてらに歩いて行くことにした。 「おかあさん、ちょうちょ」 「そうね」  小さな男の子が母親と手をつないで歩いて行く。視線を感じたのか、母親の方が僕に気がついて小さく頭を下げる。あまりに不躾に見ていた僕も慌ててそれにならった。  川沿いの桜はほとんど散っていて、青葉に変わり始めていた。河川敷ではランニングする人や、座って写生をしている人など思い思いに過ごしている。まだ少し冷たい風を縫うように差す穏やかな春の日差しが心地よかった。  木々の匂いを感じながらゆっくりと歩いているとポケットから着信音が鳴って、携帯電話を取り出した。 「なんだそれ」  メールは健人からだった。『当たって砕けっちまえ』とだけ書かれているそれは、いつも事務連絡みたいに簡潔なメールしか送ってこない彼らしくておかしかった。  健人は別れた後も普通だった。いつも通りに振る舞ったし、僕も極力そういう態度を取った。それが、周りには付き合っていることを話していなかったから不審に思われないためだったのか、ただそういうことは気にしないたちだったのかは分からない。多分、よく気のつく彼のことだから前者だと思う。  僕たちがお互いの部屋に行くことは二度となかった。学校で顔を合わせるだけで、電話やメールも本当に必要最低限だけ。そうして大学を卒業して地元に帰ってからはぱったりと連絡はなくなっていた。 『ありがとう』  僕は一言だけ返信すると、携帯電話をポケットにしまった。一度深呼吸して顔を上げる。そしてマンションのエントランスをくぐった。
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