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エピローグ
「ずいぶんとモテたらしいな」
僅かにからかうような色を帯びて和泉が言った。少しずつ暮れ始めた街を車は洋菓子店へと向かっている。
「そうでもございませんよ」
「漫画にかぶれてバスケ部だったとか」
「すぐに辞めてしまいましたが」
「勉強はできなかったと」
「ですから和泉様に勉強をしろなどと言わないじゃないですか」
「今のお前からは考えられないな」
「和泉様に会う前の私はつまらない人間だったのです」
なんのとりえもなく、何かに懸命になるわけでもなく。本当にただ流されるままに生きてきた。今、主の前にいる完璧な執事としての自分は主に出会わなければ死ぬまで存在しえなかっただろう。齋藤の地獄のようなしごきに耐えたのも、そしてその全てを身につけたのも全部。
ただ一人のために。
「だとしても僕はお前のことが知りたいと思う」
ぽつりと溢された言葉に、西嶋はまた目を細める。
「おもしろくありませんよ。私のことなど」
言いながら、左手に見えてきたお菓子の家のような店に入るためにウインカーを出す。
年配の夫婦が二人だけでやっているこの小さな洋菓子店。西嶋が初めて来た時は、高級車を店の前につけ、白い手袋に黒いスーツを着た若い男に面食らっていた店の主人も今ではすっかり顔馴染みとなった。初めてお使いを頼まれたときにチーズケーキを買ったのがこの店だった。主の一番のお気に入りだ。
駐車場に入ると静かにエンジンを切る。それを待っていたかのように和泉が口を開いた。
「秘密主義は昔からみたいだな」
「そんなことはございませんが」
「……何も別におもしろい話が聞きたいわけじゃない。ただ、誰よりも傍にいる人のことを知りたいと思うのは普通のことだ。多分、」
少しだけ言い淀んでから、
「多分、お前が思っているよりも僕はずっと、お前を大切に、思っているんだ」
それだけ言うと主は車を降りた。正面がガラス張りになっているため外からもその明るい雰囲気の店内が見える。店に入っていった和泉を、店の主人が笑顔で迎えている。主はここの夫婦にえらく気に入られていた。
それを見たまま西嶋はハンドルに凭れる。本当にこの人は、と。
「……唐突にそんなことを言わないでください」
店の主人が車にいる西嶋の方を見て何かを言っている。それにつられて振り返った和泉と目が合った。主が珍しく小さく笑みをもらす。それに笑い返した執事の耳が赤く熱を持っていたことは、執事にとっては幸いなことに、和泉からは見えなかったようだった。
「あなたはそんなことを言うけれど、私がどれほどあなたのことを―――」
その小さく呟かれた言葉を聞いたものは執事本人以外には誰もいない。
西嶋は車を降りると、店の方を振り返った。主はいつもの淡々とした表情でケーキの並ぶショーケースを覗き込んでいる。それが実はひどく真剣に選んでいるのだということは、西嶋だからわかることで。視線に気付いたわけでもないだろうに、和泉が振り返って早く来いとばかりに眉を寄せる。
それが、この上もなく幸せだと思う。
西嶋は先ほどの動揺など微塵も見せずに小さく笑い返すと、彼にとってただ一人である主の許へと歩きだした。
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