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プロローグ
弧を描く水のラインに、小さな虹がかかっていた。風が揺らす瑞々しい樹々を映す美しい黒の車体を泡が流れ落ちていく。曇りのないフロントガラスが春の光を照り返していた。
「ちょっと出かけてくる」
洗車していた西嶋が声の方に顔を向けると、彼の主である和泉が立っていた。薄い春のセーターの下にカッターシャツを着て、柔らかそうなズボンを履いた和泉はその細身なことも相まって、あと少しすれば十八になるというのにいまだ青年というよりは少年のようだった。
「あと少しお待ちいただければ、車をお出しいたしますが」
ホースの水を止めながら西嶋が言う。実際あとは流した水を拭き取ってしまえばおしまいであったが、和泉は首を振った。
「いや、本屋に行くだけだから構わない」
「駅西のですか?」
「バスに乗ればすぐだから」
西嶋はホースを置くと車の後ろを回り、和泉の傍に立った。背の高い執事にあわせて和泉は顔を上げる。
「大丈夫ですか?」
「何回も乗ったことがあるから大丈夫だ」
その言葉に西嶋が眉をひそめる。向かい合った和泉もまた同じように眉根を寄せた。
「反対路線に乗らないでくださいね」
「乗らない」
「人ごみを歩くときは前を見てください」
「当たり前だ」
「考えごとをして歩かないように」
「わかっている」
「道が分からなくなったらその場を動かないで電話してください。迎えに行きますので」
「……お前は僕をいくつだと思っているんだ」
呆れたようにため息を吐いた和泉に「失礼ですが」と西嶋は至極慇懃に続ける。
「前に道が分からなくなったとずいぶん遅くに帰って来られたことがあったかと」
「……かもしれない」
「本を読んでいたために最寄りのバス停のずっと先の終点まで行ってしまったこともあったかと」
「……かもしれない。大丈夫だ、一度やった失敗はしない」
和泉が少しむくれたように小さく呟くと、西嶋が困ったように笑った。
「心配なんです」
「心配性にもほどがある」
「それは仕方ございません」
「せいぜい気をつける」
「知らない人についていってはいけませんよ?」
バカにしているのかと睨むと、どうやらわざとだったようで、執事はその端整な顔を柔らかく緩めて微笑っていた。和泉は知らないが、それは他の誰にも見せない顔である。
肩をすくめもう一度ため息をつくと、
「行ってくる」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
優雅に腰を折った西嶋に背を向けて、和泉は暖かい日差しの下を歩き出した。
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