ここは飯を食う所だ

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ここは飯を食う所だ

「今、陽炎(かげろう)って言ったか?」 「へい、この村に来てるって噂ですよ、旦那」  空が紅に染まる夕暮れ時、村唯一の小料理屋では二本差しの男が店主を相手に酒を飲んでいた。他に客は一人。晩飯には少し早く、囲炉裏の火が跳ねる音がぱちりと響く以外店内は静かだった。 「ほう、最近耳にする離れ山の黒鬼(くろおに)でも退治に来たか」  男はそう言い放つと酒を一気に飲み干し、楽しげに笑った。頬に深く刻まれた三本の傷跡が歪む。 「良いねぇ。今日は運が良い」 「陽炎の方が居ると何か良いことがあるんで?」  酒屋の主人が相槌をうちつつ、すっともう何杯めかの酒を注ぐ。 「それよ。俺はな、強えぇってのが大好きなのよ」 「……強い、ですか」 「そう!」  ずいぶん酔いが回ったのか、饒舌になった男は店主を遮り、赤い顔を上げた。 「俺ぁしがねぇ浪人さ。だがな、腕には自信ってもんがあんのよ。強い奴と勝負して俺が勝つ、これが楽しくてたまらねえ。なあ、陽炎の奴らが陰で何て呼ばれているか知ってるか」 「へえ」 「鬼、よ。巨大な体躯は毛で覆われ、鋭い角と牙が相手の肉をえぐる。光る両目は闇夜を照らし、その腕力はぶっとい柱をも薙ぎ倒す。出会っちまったら死を覚悟しろ。死にたくなければ近寄るな、ってな」  男の鋭い眼光に気圧されて店主が口を閉ざす。冷えた空気とは対照的に囲炉裏の中で炎が大きく揺らめき、男の顔に陰を刻んだ。 「黒鬼と陽炎の戦いか、良いねぇ、良いねぇ。これも何かの縁だ。俺は勝った方と勝負するぜ」 「勝負……。その……お、鬼と?」 「そうよ。鬼の首、ぶった斬ってやる」 「ありゃりゃ、随分と生意気なことを言う酔っぱらいだね」 「何っ?」  不意にクスクスと鈴を転がしたような澄んだ声音が静寂に響く。 「りゃ、怖い顔」 「誰だ」  赤い顔をさらに真っ赤にした男は、脇に置いてあった刀を手に取ると勢いのまま立ち上がった。蹴られた酒が飛んで、動けない店主の着物を濡らす。 「だ、だ、旦那っ。わたしじゃありませっ、ひっ」  バタバタと両手を振る店主を睨んで黙らせ、刀を抜く。よく手入れされた鋭い切っ先が華奢な背を捉えて止まる。怒りにまかせて思い切り鞘を投げ捨てると、何かが崩れる音と店主の悲鳴が重なった。背中がピクリと震える。 「てめぇか」 「……」  無言。  恐ろしくて声も出ないに違いない、男は切っ先をゆっくりと持ち上げ、首元に据えた。まだ少年と呼べる幼さの残る横顔が刀身に映る。 「てめぇなのか、って聞いてんだよ」 「……それが人にものを尋ねる態度か」 「は?」  怯えているはずの少年の予想外の一撃に男の思考が急停止する。 「挨拶も無しに抜刀とは。礼儀も知らぬのか、お前は」  少年が刀を避けて男を見据える。たかが子供だと分かっているのに、目を逸らすことができない。いつからそこに居たのだろうか、少年の肩で斑模様の猫が小さく鳴いた。 「そんな危ないものはしまっておけ。ここは飯を食う所だ」  そう言うと少年はおもむろに袂を探る。 「店主、飯代はここに置いていく。御馳走様」  言い残すと少年は踵を返し、店を出て行った。男の腕から力が抜ける。斬ろうとしたのに、動くことができなかった。心なしか手に持つ刀が重くなったように感じる。 「!」  否、重くなったのだ。刀は放り投げたはずの鞘に納まっていた。 「何故……」  店内は再び静かになり、囲炉裏の中で炭がはじけた。
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