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つけられている。
地を踏む自分の足音に別な音が重なる。数歩進めば同じ分だけ相手も進み、止まれば一寸遅れて相手も止まる。下手な尾行ほど鬱陶しいものはない。鳥のような鳴き声が微かに響き、月の光も木々に遮られた山道で、弥之助は小さく息をついた。
「面倒事を起こすなとあれほど言っただろう、鈴丸」
「りゃ?」
肩に陣取る猫、鈴丸が小首を傾げて不満げに呟く。
「オイラは悪くないぞ」
「お前が挑発するからだろう」
腹が減り、立ち寄った小料理屋で突然に鈴丸が酔っぱらった男に話しかけたのだ。しかし、普通の人間は猫に話しかけられたとは思わない。当然男は弥之助に怒りの矛先を向け、刀まで持ち出す始末。挙句、その男につけられている。これを面倒事と言わず何と言うのか。
「あの酔っぱらいが悪いんだ、弥之助を、ばかにしたんだ」
鈴丸が低く唸り、弥之助の頬を押す。ひやりと柔らかい肉球が何とも気持ち良いが、これは黙っておこう。
「引っかいてやるところだったのに。弥之助が尻尾つかむから」
遅れて頬に食い込む爪は痛い。
「あんな戯言、聞き流せ。無視で良い。全て相手にしていたらきりがない」
「怒っているな、弥之助」
「当たり前だ」
今から仕事だというのに、酔っぱらいにふらふらと尾行されていたら下手に動けない。しかも運の悪いことに相手は侍だ。刀など振り回されて、仕事の邪魔になったら最悪だ。
「そうじゃないぞ」
弥之助の考えを読んだかのように鈴丸が言う。
「……何がだ」
「うまい店だったなあ。田舎の飯だと侮っていたが、うまい、うまい。」
「おい、鈴」
言い返そうとした弥之助は、はたと口をつぐんだ。鈴丸がにやりと笑う。
「大根、だな?」
「……」
「りゃりゃ、図星だなっ」
嬉しそうに鈴丸が跳ね、右肩にその振動が伝わる。
「やかましい、化け猫っ」
「猫、違う。狐だっ」
「お前のせいで食いそこなったんだ、文句を言って何が悪い」
「りゃー、開き直ったー」
我ながら馬鹿らしいとは思うが、江戸を離れて丸十九日、まともな食事も取れず歩き通しの日々。やっと、ありつけた温かい飯を半分も食えずに出てきてしまったのだ。しかも大好物の大根があったのに、だ。鰹の香りがきいたダシが程良く浸みこみ、触れただけで崩れてしまいそうなくらい軟らかく煮込まれた大根。立ち昇る湯気と共に味わうのが何とも美味なのだ。せめて一口くらい食ってくればよかった。今さらながらに後悔を覚え、もう一度文句を並べてやろうと弥之助が口を開きかけたその瞬間だった。
うああああああ
冷えた夜気の静けさを叫び声が貫く。
「あの酔っぱらいか。いくぞ、鈴丸」
なんであいつを、と唸る鈴丸を黙殺して弥之助は来た道を走った。
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