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黒き鬼の心
「重いな……」
意識の無い人間というのはどうしてこうも重いのだろう。弥之助は、助け出した人間を半ば引きずるようにして木の陰に寄せた。
「おー、お疲れ弥之助。正面から頭に一撃か、瞬殺だな」
いつの間にやって来たのか、鈴丸が前足で鬼の角をつつく。
「あの男の中の妖気も消えたみたいだぞ。で、呑まれた奴は無事だったのか」
「ああ」
弥之助の曖昧な応えに鈴丸が怪訝そうに振り返る。
「どうした」
「いや、何処かで見た顔だとは思ったんだが」
「こいつぁ、さっきの飯屋のオヤジじゃねぇか」
弥之助の背後から男が覗き込んできた。
「何でぃ、こいつが鬼の正体か」
「正体……か」
恐怖、恨み、悲しみ、怒り、嫉妬。鬼はそんな人間の弱い心に触れて力を得る。人が鬼になる理由は様々だ。
だが、自ら望んで鬼になる者などいない。
少なくとも、弥之助はそう思っている。
「う……」
不意に呻き声が聞こえ、倒れていた店主が目を覚ました。考え込んでしまっていたようだ。
「起きたぞ、弥之助。大根。大根のオヤジだ」
「てめぇ、俺に何しやがった!」
「ひぃっ」
「やめろ、うるさい、落ち着け」
場違いなくらい楽しげに跳ねる鈴丸を押さえ、店主に掴みかかろうとする男を制して、怯える店主をなだめる。
「りゃー、どうしようもないな。おまえら」
鈴丸が弥之助の腕の下で呆れた風に尻尾を揺らした。呆れるのはこちらだが、今はそれどころではない。
「店主、大丈夫か」
しかし、店主は虚ろな表情で固まったままだ。深く刻まれたしわに崩れた髪、ぼろぼろの着物から出る震える素足は傷だらけだ。先に小料理屋で会った時よりも、ずっと老けこんだように感じた。
「大丈夫か」
もう一度声をかけると店主はビクリと肩を震わせ、その視線を弥之助に向けた。
「あ、だ、違う、わたしは、なんてことを」
「解った。解ったから、落ち着け」
これでは会話にならない。
「なー、弥之助。帰ろう」
鈴丸が店主の傍にかがんだ弥之助の袴の裾を引っ掻く。
「鈴丸」
「鬼は退治したし、大根のオヤジは起きた。仕事は終わりだ」
確かに仕事は終わりだ。
が、遂に泣き出してしまった店主を置いていける訳がない。このまま帰れば確実に頭領に問い詰められる。
何より、弥之助の心が迷う。
「まだだ、鈴丸。一度村の小料理屋まで戻るぞ」
冷えた夜気が、月明かりを含んで辺りを照らす。今ならまだ夜明けまでに村に戻れるはずだ。
「駄目です。わたしはもう、帰れません」
だが、弥之助の言葉に異を唱えたのは鈴丸ではなく、店主本人だった。
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