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月明かりが木々の影を深くうつし出す。
「わたしはもう人間じゃあない。覚えているんです。わたしが、全部、わたしがやったのです」
座り込んだままの店主が震える声を紡ぐ。
何の話だと男が弥之助の腕を小突いた。
「数か月前、江戸で人々が鬼に喰われる事件が起きた。しかも、狙われたのは武士ばかりだった」
静かに語り出した弥之助の隣で、男が息をのむ。
弥之助も指令を受けて現場に駆けつけたが、そこにはもう鬼の姿は無かった。そしてそのすぐ後に、江戸から離れたこの森で同じような鬼の目撃情報が相次いだのだ。故に、調査兼退治の任務で弥之助は江戸を出た。
「おじさんが鬼に狙われていたのは誤算だったがな」
「……まさか、こんな子供が」
男が驚きの声を上げる。
「ああ。俺は、幕府直属の戦闘部陽炎所属、佐倉弥之助。鬼ではないし、まして角も牙も生えていない。人間だ。期待に沿えなくて悪かったな」
「うはあ、マジか」
だから、名乗りたくなかったのだ。もう慣れ切った反応だが、ここまであからさまにがっかりされると腹が立つ。
弥之助が男を睨んだその時だった。
「……幕府?」
小さな呟きが耳をかすめ、弥之助は思いきり両肩を掴まれた。
「お前、幕府の狗か!」
怒号と共に、そのまま激しく揺さぶられる。
「弥之助っ!何すんだ、おまえ!」
鈴丸が飛びかかったが、弥之助を揺する店主の手は緩まない。着物を着ているはずなのに、肩に爪の食い込む感覚が弥之助を襲った。
「何が侍、何が武士、何が御上のため、国のためだ!何も出来ぬくせに、何も守らぬくせに、偉そうに!」
店主の放つ暗い憎悪がその腕を伝って弥之助にぶつかる。
「わたしは!わたしは妻と娘を侍に殺されたんだ!だのに何故、何もしてくれない?何故、謝罪の言葉もない?鬼に憑かれ、江戸を離れたこの村で、一人生きるしかないのに、何故、お前ら侍が堂々と町を歩ける?」
憎悪、違う。
店主から溢れ出したのは抱えきれない寂しさだった。
「罪もない人を殺して、幕府を、国を守れる訳が無い。偉そうに吠えたところでお前らは、結局、何も守れちゃいないんだ!」
守れない。何も。あの時も。
店主の言葉が弥之助の記憶をえぐる。何度も夢に見る映像が鮮やかに蘇り、果たせなかった約束が足かせのように絡みつく。
決して戻ることのない日々と失った笑顔、かつて己が流した涙が目の前の店主と重なって、弱い自分を思い知る。
「……すまな……」
「ち、ふざけんじゃねぇよ」
不意に弥之助を遮り、男が頬を歪めた。
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