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【1】
白い小花がパラパラと咲いている。
最盛期ではない。
もう終わりがけだ。
広大な蕎麦畑が広がっている。
いくらか涼しい風に、茎や葉の青い匂いと枯れかけた匂いが混じっている。
どこか懐かしい、寂しさを感じさせる匂いだ。
8月上旬。
山あいに広がる蕎麦畑の沿道に、一台の古びた煉瓦色のバスが停まる。
そこから大きな荷物を背負った家族が一組。
30代の夫婦と、8歳の子供。女の子だ。
切り揃えたおかっぱの髪を風に揺らして、少女は舗装されていない土の道にジャンプで降り立つ。
「気を付けるのよ。日向子。この辺はマムシも多いから」
「マムシ?」
「日向子は都会暮らししかしていないからなあ。見たこともないだろう。毒蛇だよ。頭が三角の」
「あたし、生き物なら怖くないよ」
「いやいや」
父母の心配をよそに、好奇心旺盛な日向子は二人の前に駆け出していく。
「変わった子よねえ。自分の子ながら」
「いいじゃないか。度胸があって」
「ただの怖いもの知らずよ。ねえ、ちょっと待って。日向子!あんた、どこの家か分かるの?分かんないでしょう?」
ずんずん進んでいく娘に慌てて母が呼び掛ける。
日向子はまもなく立ち止まった。
その視界の先には、水車小屋が隣接した古民家があった。
娘の肩を取り押さえるようにして母が言う。
「ああ、良かった。ちょうど止まったわね。そうそう、ここが目的地よ。吾朗叔父さんの家」
母の叔父に当たる吾朗の家は、蕎麦農家を営んでいる。
水車小屋の前には一面に広大な畑が広がっていた。
「あっ、ちょうちょ」
ひらひらと舞う蝶を追いかけて日向子は畑の中に足を踏み入れた。あちこちに巡らされた水路には、ちょろちょろと水が流れていた。
幅50センチにも満たない水路だが、日向子の足にはまだ小川のようでもある。
日向子は所々掛かっている木の板を踏みつけて畑を縦横に駆け回っていく。
「こらっ!日向子ぉ!まずはご挨拶しないと!それに蕎麦を踏むんじゃないわよ!」
「いいじゃないか。その辺は分かってるさ。初めての田舎で興奮しているんだよ。それよりほら、義兄さんたちも、来ているようだ。先に僕たちだけでも顔を出そう」
しかめ面の母の腕を引き、父は古びた木戸に手をかけた。昔ながらの古い家だ。でこぼこの木製のレールの上をギシギシと軋ませながら、扉は少しずつ横滑りに開いていく。
家の中から吹いてきた僅かな風を感じた瞬間、日向子は顔色を変えた。
急に、心から余裕がなくなる。
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