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 日向子から家までの距離は十メートルほどだった。  強めの風は逆風だし、家の匂いなど気になるほどに届くはずもない。  ただ、胸騒ぎがした。  カラカラと鳴る水の音。  水車は水の流れを調節してあるのか、今は力なく回転しているように見える。  日向子は玄関に飛び込んだ。  先に入った父や母が、下足所から腰を上げている所だった。向かって右側には二畳ほどの土間があり、様々な農具が棚に置かれている。  靴を並べようと後ろを向いた母が突然悲鳴を上げた。 「きゃああっ!ねっ、ねずみ!」  茶色に汚れた白鼠がササッと土間を突っ切っていく。  棚の下の穴に消えていったのを目前に見たが、日向子は驚かなかった。  母は心臓を押さえて愚痴を垂れる。 「もう!これだから嫌なのよ。田舎って」 「君も昔はこの辺に住んでいたんだろうに」 「田舎育ちだからって虫やネズミが好きとは限らないわよ。ああもう、やだやだ!」  日向子は両親の向こうにある座敷が気になって首を伸ばす。  座敷にはもう何人か親戚が集まっているようだ。  吾朗が母の叔父だから、集まっているのは母方の親族だけだ。  ようやく靴を脱いで上がると、高齢の祖父に加え、母方の兄弟、その子供たちなど九人が先に座っていた。 「やあ、よく来たねえ。日向子ちゃんだっけ。ミチは結婚してから全くこっちに戻らんもんだから、会うのは初めてだねえ」 「今、何年生?3年生?」 「うちの竜太と一つ違いだねえ」  声をかけられているのは分かっていた。  いつもなら社交辞令で頭を下げることくらいワケない。自然な愛想笑いだって出来る自信はある。  けれどそれが、出来なかった。  みんなが囲んでいる、その布団の中の老人を見た瞬間に、日向子の身体は凍りついてしまったのだ。 「どうしたの、日向子。ボーッとして。すみませんねえ、いつもなら大人とでも平気でお喋りする活発な子なんですけど」  兄の嫁に気を使いながら母が笑って腰を下ろす。裾を引っ張られて、日向子もその隣によろめきつつ座った。  談笑する母の代わりに、日向子を挟むようにもう片側に座った父が耳打ちをしてくる。 「びっくりしたのか?吾朗叔父さんに会うこと自体初めてだもんな。それでこんな・・・・・・今際の際だしなあ。ちょっと、そりゃビビるよな」  布団に入った吾朗は、既に虫の息であった。元々あった持病が急変し、親族が呼び集められたのだ。  村医者は入院ももう意味なしと、近い死の宣告をした。  その話を、母の電話のやり取りを聴いて分かっていたはずだった。 734b4142-d3fc-4a9b-8536-0e62d7fc378f
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