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 私の「手」って、こんなだったっけ。 深谷咲は、両手のひらをまじまじと見つめた。 夏の日の午後、大学の構内はそろそろその日の講義が終わる学生達で賑やかだ。図書館の階段の端に腰掛け、咲は両手を握ったり開いたりしながら、目と手の感覚を確かめる。  講義までには落ち着いておかないと。 「咲、待った?」  目を上げると、そこに友人の吉岡みさきが手をひらひらさせて立っていた。 「大丈夫、さっき来たばっかりだから」 みさきの声が聞こえてるけど、今一つ実感が湧かない。まだ「ぼうっとしている」んだ。  無理やり意識を目の前のみさきに向け、心を身体に「降ろす」イメージをする。  ちょうと今のように、身体と心がずれてしまっているような感覚の時、まるで降霊術のように咲は己を現実に取り戻す儀式を行うのだ。何か考え事をしている時、空想する時、何かの拍子に咲の意識はいとも簡単に現実から浮遊する。儀式を行わないと、まるでテレビの画面を見ているような、妙な非現実感が意識を覆う。会話も音も、映像も、入ってくるのは判るがその内容が意識には届かない。だから咲はよく、他人から聞いているのか、念押しをされることがよくある。  その点吉岡みさきは、大らかな性格か、はたまたよく通る声質のせいか、咲が聞いていないことを気にしないし、ぼんやりしている時の咲にもよく声が通る。そのせいか、大学に入って最初に出来た友人でもあった。 「今日の夜は、教育部と経営学部との合コンでしょ? 咲も行くよね?」 「うーん……どうしようかな。明日バイトあるし」 「もう、せっかくの金曜日なんだから、行こうよ。バイトもお昼からでしょ?」 「そうだけど……」  乗り気になれないのには理由があった。  咲は、同好会に入っている。いわゆるサークルだ。  「地質研究同好会」という、「地質」と謳うわりに、時を経た古いモノを色々集め、興味があるモノについて好き放題に研究する同好会だ。者や物、古ければ種類を問わない為、同好会の部屋には化石から古酒、写真などあらゆる古いモノが溜まっている。  ちょうど先の講義が終わった後、同好会室に私物を取りに行った時、何かの拍子に咲は古代の魚か何かの化石に触れた。  触った瞬間に、意識が離れる感覚が襲い、あわてて出てきたのだ。このような状態になることがたまにある。それまで何とも感じなかったモノに対し、引っ張られるのだ。  飲み会は嫌いじゃないけど、こんな状態じゃ楽しめないかもな‥‥みさきは悪酔いしやすいし。 「咲、何してんの。一人じゃんけん?」  手を握ったり開いたりする仕草を見て、みさきが首を傾げた。 「違う、何でもないよ」  早く戻さないと。でないと、この先何が起こるのか、咲にとっては未知の世界だ。  でも、もしこのままだったら何が「視える」んだろう。  ふと目を上げ、周囲の光景を確かめるようになぞり見る。今いる場所は大学。今は午後。隣にいるのはみさき。座っている階段の質感。服の感触。靴の中踏みしめているインソールの感触とその先の地面。爪が食い込むほど握りしめる手のひら。  「ここ」に居なくてはと、今立つこの場所を感覚を総動員し感じながら、それでも現実の隙間から透かし視える光景を目の当たりにした時、抗えないだろう予感に、咲は少し慄いていた。 「じゃ、行こうか。講義に遅れちゃう」  リズミカルに弾けるみさきの声にはっとする。 しっかりして。戻らなくちゃ。  そう自分自身に意識を向け、頷いて咲は立ち上がった。  柔らかなオレンジ色の光が店の中に満ちている。  みさきに説得されて、中途半端な気持ちを押しやるかのように意気込んで参加した飲み会の会場は、思ったより居心地が良かった。  夕焼けの残り火が漂う夜空が窓越しに見え、オレンジ色の光の店内と繋がっているように見える。もうすぐ外は夜になり、ここは暖かな穴倉のようになるのだろう。顔見知りの友人達のテーブルで、咲とみさきは飲み始めていた。 「実は今日の飲み会はさ、お目当ての人がいるんだ」  咲は酒には強いが、あまり飲めない。みさきは酒は弱いがのんべえである。  彼女は酔っても絡んだり泣いたりするタイプではないが、体調により変わるので、酒の席では必ず友人が同行することにしている。 「そうなの? 誰なの?」 「えっとねー、法学部の上条君! かっこ良いんだよ」  みさきは既に軽く出来上がっている。もともと人の多い楽しい席が好きなのだ。 「もう……、みさきってば飲み過ぎないでよね」  早めに席についたこともあり、まだ始まって20分くらいしか経ってないが、この先が思いやられる。周りを気にして小声で話していたが、だんだん声が大きくなっている。例のカミジョウ君とやらも、近くにいるはずだ。もうすでに聞こえるのかもしれない。 「あ! 来てた!ほら、あの人!」  隣り合う肩をぐいぐい押しつけながら、みさきが色めき立った。 「みさきってば、声大きいよ。ほら、人の事、指ささないの」  お目立てのひとが来て大喜びのみさきをなだめつつ、どんな人なのだろうと見やった。  一つテーブルをはさんだグループの中に、彼は居た。  大勢の中にいて馴染んでいるが、自分のペースを崩さず好きに過ごしているように見える。    整った顔立ちや身体つき、来ている服のセンスもまあまあ良い。大体の女の子は彼がお気に入りになるだろう。  周りの友人達からと話し、時々笑う。グラスを傾けて何かを考えているようだが、それでも誰からか話しかけられたらきちんと顔を向けて話す。男性陣以外と話そうとはせず、ちらちらと視線をやる女性陣からは目を伏せて、決して目立とうともしない。かっこいいのに。  庭に隠れている宝物みたい。 ふとそう思い、咲は可笑しくなった。だってそうなると、周りの友人達は庭の小石や葉っぱではないか。女って残酷だなぁと思いつつ、ノンアルコールのグラスを傾けた。  アルコールがダメな咲は、当然の事ながら楽しく酔った事が無い。大学に合格したときに、一度家族で祝杯を挙げたことがある。もちろん未成年なのだが、入学後のことを考えて両親がビールとワインを少しずつ飲ませてくれた。すぐ顔が真っ赤になるので結果としてアルコールに興味を失くしてしまった訳だが、みさきを含め周囲の楽しそうな様子を見ると、うらやましく感じる。  咲は三人兄弟の長女だ。両親が共働きなので、妹と弟の面倒を見たり、食事を作ったりしてきたが、習い事をさせてもらったり部活動もしたりと、特に長女らしくするよう躾けられてきた訳ではない。  ただ、咲は今この世に無いもの、異変が視える。  異変が起こる都度、周囲にも気を配るようになった。あまり我を忘れる事が無いよう気を付けるようになった。長女らしいと言われるが、そうではなく、咲にとってこの世界は少々たがが外れやすく、いつも気を張っていないとあっという間に「どこか」に持っていかれるのだ。 気分が高揚し我を忘れることは、彼女にとっては自らこの世界の淵に足を向けることに他ならず、特に酒との相性が悪かったことは彼女にとっては存外の幸運だったと言える。  酒が飲めずとも友人達との時間は楽しく、さほど不自由に感じることは無かったが、時々彼らがどのような感覚を味わっているのか知りたいとも思う。たとえば、今の状況について、みさきは何を考えてそう行動しているのだろう。 「あたし! 謙太君のメアドゲットしてくる!」  止める間もなく、酔っぱらったみさきは謙太達のテーブルに突進していった。カミジョウ君のことも、いつの間にか名前呼びだ。 「あーあ、行っちゃった……」  同じテーブルの友人達は、困ったなという顔でちらちらと咲に目をやる。 「わかった、やばくなったら、私が行って来るわ」  髪をかきあげ、咲は微笑んだ。 「ちょっと待った! 謙太君、メアド交換しようよ! 折角だからさ」  ぱっと弾けるようなみさきの声に、咲ははっとして顔を向けた。  みさきがテーブルを移動してすぐ、小腹が空いてきたので何か頼もうかとメニューに目をやっていた時だった。  「や、急いでいるから次の機会でいい? まじ彼女待ってるからさ」 「えー! いいじゃん、すぐ交換出来るから!」  みさきがいるテーブルに目を向けると、謙太の隣に座り、身体を寄せてるみさきが見えた。周囲の男性陣がみさきの気を引こうとスマホを向けるが、軽くあしらわれている。謙太は心持ち身体をみさきから離そうとしているようだ。 「みさきってば、今日は急ぎすぎじゃない?」  友人が心配そうに咲に声をかける。確かにいつもより前のめりだ。 「わかった、連れ戻してくるね」  周囲の女性陣も遠巻きに視線をやり始めている。悪い印象を持たれる前に、連れ戻すのが得策だ。  咲はテーブルに歩み寄り、みさきの肩に手を置いた。 「少しいい?」  咲の声に反応したように、謙太がぱっと咲を見上げた。  少し驚いたような顔をしている。よっぽど困っていたのだろう。彼の怒りのトリガーが引かれるその前に、さえぎることが出来たのかもしれない。 「ほら、みさき。呑み過ぎだよ。酔い醒まさないと。……ごめんなさい、この子、いつもはお酒失敗しないんだけど、今日は疲れてたみたい」 「……いや、いいよ。俺は大丈夫だから、その子見てあげて」  みさきは結構悪酔いしているようだ。咲にも絡んでくるのに軽く受け答えながら、店の外で酔いを醒ますことにする。 「ほら、気を付けて。いったん外で酔い醒まそう」  扉を開いてみさきを振り返ったその視界の端に、謙太が映った。友人達と何か話している。店の明かりのせいか、やけにくっきりと、少し光っているかのように見えた。
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