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3
夜風が気持ちいい。
咲は、駅までの道のりをゆっくり歩いていた。
飲み会での騒ぎの後、軽く酔いを醒ました後みさきとともに店に戻ると、謙太はもういなかった。
みさきはまだ飲みたいと言い、テーブルに戻るなり他の友人達から説教をくらった。
本人はやはり緊張していたようだった。憧れの人だが、これまでの交友関係にはいなかったタイプらしく、どうアプローチしたらいいのか判らなかったらしい。だけどこの機会を逃せば、もっとチャンスは減ってしまう。
「彼女はいるらしいんだけどさ、友達くらいにはなりたいじゃない? そもそも印象にも残らなかったら意味無いし」
気持ちは判るけど、地雷確定じゃん!
あきれたような友人達に囲まれ、みさとは肩をすくめた。咲も苦笑いである。
「ごめん、私は先に帰るね。明日バイトあるから」
ひとしきり笑いあった後、残念そうに見上げるみさとの肩を軽くたたき、咲は居酒屋を後にした。
9月も中旬になると、夜は少し肌寒い。
駅に向かう道は歩道が狭く、人を避けながら歩くのは少々骨が折れる。
空は高くなるにつれ黒一色になり、地上の灯りが消せないほどの星の光がぽつぽつと針の孔のように散らばっていた。
駅手前のロータリー付近は、まだ人の流れも車の流れもある。
だが、一瞬その流れが途切れると、駅前から左右に伸びる県道沿いは、薄暗い闇に覆われる。
昼間は、県道沿いに建つビジネスビルから様々な人々があふれて賑やかなのだが、夜も21時を過ぎると、多少田舎でもあるこの地域は静かになる。街灯があるにも関わらず、その道の先が人気のないビルばかりだからで、この街に越してきたばかりの咲は、街も夜は眠るのだと初めて知った。
後少ししたら、「空気」が変わる。
人が多い場所では感じることもないが、周りが今のようにがらんどうになった時、ある時間帯から空気が変わる感じるのを感じるようになった。それからは、咲も可能な限りその時間帯は、外で一人にならないように気を付けるようなった。
駅前ロータリーで信号待ちをしている間、咲は今日の飲み会の様子を思い出していた。思ったより楽しくて、気持ちもいい。ふと謙太の驚いたような表情を思い出す。端正な顔立ちで、確かにカッコよかった。目鼻立ちもそうだけど、顎がしっかりしていたのが好みだった。そしてあの驚いたような瞳。
可愛かったな。ふと頭をよぎった思いに驚き、慌ててその考えを打ち消す。みさとの顔が脳裏にちらりと現れ、咲の意識に「罪悪感」として浮かび上がる前に消えていく。
それよりも早く帰ろう。この場所、空気が変わる予感がする。
パアァン。
遠くで車のクラクションが聞こえ、不意をつかれた咲は、はっとして顔を上げた。
「あ」
声にならない声が開いた口からこぼれ出る。右の暗闇からヘッドライトのような細い光が差し込み、その光を見上げた先に広場の時計台が白く薄暗い闇の中に浮かびあがっていた。
瞬間、広場の空気が何かに変質したかのように、あるいは透明なフィルターで覆われ隠されてしまったかのように感じ、咲は慌てて手を強く握りしめた。手のひらに食い込む爪の感触はあるが、それでも「感覚」が戻らない。頭の中の軸がゆぁんとわずかに曲がり、目の前に「少しだけ」ずれた世界が広がる。一瞬だけ、昼間サークルの部室で触れた貝の化石が脳裏によぎった。
まずい、「儀式」をしなくては。
ここは、駅前。飲み会ではみさとが悪酔いして大変だった。今から切符を買って電車に乗って帰る。そう自身に「現実」を言い聞かせ、再度周囲を見回した時―――視界の隅を過ったモノを、咲は視てしまった。
咲が駅前のロータリーで立ちすくむ少し前。
上条謙太は夜風に吹かれながら、駅前に向けてぶらぶらと歩いていた。
21時を過ぎ、駅前に向かう通りは、昼間や夕方ほどではないが、人の波がまだ途切れずにぱらぱらと流れている。
帰り道にコンビニに寄ったり本屋や店を覗きながら歩いていたが、あまり遅くなるとまた飲み会帰りのメンバーと鉢合うので、諦めて駅に向かう。
今日の飲み会にいた酔っぱらいの友達は、不思議なコだったな。
居酒屋での出来事はもう忘れかけていたが、あの黒い吸い込まれるような瞳と、直接頭に入ってくるような凛とした声だけはまだ頭から離れない。顔立ちはまあ整っている位の認識だったが、それ以上に目と声の印象が強すぎるのだろう。顔かたちから服装まで、あまり覚えていないのだ。
どこから来たコなんだろう。そういえばお互い自己紹介するまでもなく、店を出てしまった。もう少し話したかったが、もれなくあの酔っ払いが一緒なので、どのみちそんなに長くは話せなかっただろう。
でも、縁があればまた会えるかもしれない。同じ大学だし、他の学部のキャンパスもさほど離れていない。多分…多分、近いうち会えるだろう。
パアァン
車のクラクションに、謙太は思わず顔を上げた。駅前ロータリーに入ろうとするタクシーが他の車に鳴らしたようだ。自分がぼんやりと歩いていたことに気付き、慌てて周囲に目をやる。周囲はいつもの夜の駅前の風景だ。明るい駅の構内に吸い込まれていく人々、駅前のコンビニの明かりの周辺にたむろする若者。
ロータリーを横切る横断歩道に向かおうとし、謙太は一瞬声を上げそうになった。渡ろうとして待つ人々の中に、1人だけ、薄青い燐光をまとう人影があったのだ。
一瞬何か燃えているのかと思い、謙太は瞬きをしてその人影を見直した。若い…若い女性だ。肩までの髪、白い肌。ワンピースを着ていて、普通にどこにでもいるような感じの、同年代の女の子に見える。だけど……だけど、その身にまとう青い小さな炎はなんなのだ。なぜ、周囲の誰も気づかないのだろう。
その女の子がちらりと顔を謙太が立っているあたりに向けた。ふうわりと何かを追うような視線で顔を傾ける。何かを視ている。なにかを視ているその瞳は……。
謙太は思わず声をあげた。
「君、もしかして、さっき居酒屋にいた?」
あの酔っ払いの友達じゃないか!
咲はゆっくりと謙太に振り向いた。憑き物が落ちたような、我に返ったような表情で、先ほどまでの何かを視ていた瞳とは違う。
側まで駆け寄り、思わず謙太は咲の肩に手をかけた。薄青い燐光はちろちろと彼女の全身を覆っているが、熱くはない。肩に手をかけられた反動か、咲がよろめく。謙太は慌てて彼女を道路の端から植込みまで下げ、座らせた。
「どうしたの? この、青い火みたいなのは何?」
謙太は彼女の顔を覗き込み、まともに彼女の黒い瞳を見た。黒いがつややかな光を帯びた瞳だ。周囲の白い部分がさらに青みを帯びて白く、彼女を取り巻く青い燐光が宿っているようにも見える。
「君、さっき居酒屋にいなかった? ほら、教育学部の桜井が幹事の。俺、さっき君の友達に絡まれてた上条謙太」
あ、と小さく呟き、黒い瞳の焦点が合う。
「……ねえ、君、何が見えてるの?」
普段であれば、謙太の問いへの答えにもならない、奇妙な問い掛けと気付くところだが、その時の謙太はその状況をごく当たり前の事として、すんなりと受け入れていた。
「君の周りに、…青い火が見える」
彼女は驚いたかのように目を見開いた。そして、何か大きな空間の中でその身の拠り所を求めるかのように、肩に添えられた謙太の手に視線を落とした。
「あ! ごめんね、勝手に触って」
視線に気づいた謙太が慌てて肩から手を離そうとすると、咲は慌ててその手を反対側の手で押さえた。
「いい、このままでいい。私、今、浮いてしまいそうだから」
「浮く?」
「……ごめんね、戻るまでこのままでお願い」
そう呟くと、彼女はついと視線を外し、空を見上げた。その途端、彼女を取り巻く薄青い燐光が泡のようにこぽこぽと彼女の体を包んで渦巻き、黒い夜空へと舞い上がっていく。
周囲の人間が誰一人この光景に気付かないまま、謙太だけがあまりの光景にあんぐりと口を開いたまま、その燐光を見つめていた。
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