君の瞳には映らない

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春樹は小学四年生の時に、父親の転勤で転校した。生まれたのは東京だが、育ったのは福岡だ。春樹は転校した学校で、標準語に馴染むまでほとんど自分から会話をしようとしなかった。言葉が生まれ育った場所とちがうことを認識した時に、物が喉に詰まったように言葉が出なくなった。始めは転校生の物珍しさから話しかけてきたクラスメイト達も春樹の反応の薄さに気づいて話しかけなくなった。 体育の時、春樹だけ跳び箱の4段が飛べなかった。転校前は跳べた。何度やってみても跳び箱の上に座ってしまう。焦れば焦る程、どうして飛んでいたのか分からなくなる。クラスの女子がクスクス笑うのが胸に刺さった。向けられた視線が優しくないのは言われなくても分かる。 クラス対抗の大縄跳びがあった。春樹のクラスの担任は熱血の体育会系で当然、力を入れていた。春樹が足を引っかけて春樹のクラスは優勝をのがし、準優勝になった。無言でお前のせいだと言われているようでいたたまれない気持ちになった。はっきりお前のせいだと言われた方が数倍楽だと思った。次第に食欲がなくなり、仏飯程の飯も喉を通らなくなった。もともと小柄の春樹には給食の量が多かった。1人だけ昼休みまで冷えた飯を食べさせられた。馴染めないクラスで食べる給食は死ぬ程不味かった。 この学校には居場所がない。この学校から、この街から、いなくなれと言われている気がした。肌を撫でる風はカミソリの刃をあてられたようにヒリヒリする。足元ばかり見て過ごす日々が続いた。 その朝、学校に行くと上履きが下駄箱になかった。靴下のまま教室に入ると誰かがクスクス笑う声がした。椅子に座るとズボン越しにベチャッと何かが触れるのを感じた。糊が椅子にこぼれていてそれに気が付かずに座ってしまったのだ。空の容器が床に落ちている。あはっと女の子の声で笑うのが聞こえた。声の方を見ると春樹を見てにやけている男女が数名いた。暗に自分達の仕業だと伝えている。どうする?やめてくれと言おうか?出来ない。僕は完全にここではアウェイで変な方言を話す外人と同じだ。見ている人もいるのにみんな知らないふりをしている。大丈夫?と聞いてくれる人はいない。僕がその立場でもそんな事に関わるのは嫌だ。だけど自分がされてみるまでどんな気持ちは分からない。 前の学校では友達も沢山いて楽しかった。春樹は前の学校の友達の事や楽しかった事を思い出した。 学校を休みたい。行きたくない。朝から気分がひどく沈んで帰宅するとぐったりした。 気を紛らわしたくてゲームをしていると1時間だけだと母親に取り上げられた。うざったくて力づくで取り返した。 「ゲームばかりしてろくな人間にならない、約束を守らない最低な人間だ」と母親に叱られた。最後のタガが外れた気がした。 何も分かってない。ゲームばかりしている訳じゃない。 「引越したせいだ!!……引越しなんかしたくなかった!!」 手当り次第にそこら中にある物を母親に投げつけた。母親の呆気にとられて驚いた顔が涙で滲んだ。 班替えで始めて透と同じ班になった。透は大人しいが物言わせぬ雰囲気がある子供だった。その頃から透は中学生に見間違えられる程に大きかった。 「水野君、飯が多いなら食う前に俺にくれ」 透がそう言って米飯の器を差し出した。慌てて春樹は米飯ごと透に渡した。透はいいのか?という顔を一瞬浮かべたが黙ってあっという間にそれを空にして春樹に返した。 「ありがとう」春樹は小さな声で透に言った。 「なら、水野にはこれをあげるよ」 真後ろで声が聞こえた。髪を濡らす冷たい感触。白い液体がボタボタ春樹を伝って床に零れる。 「お前ら何やってんだよ!」 透が怒鳴った。 春樹は何も出来ずに固まった。 「透だって水野の飯取ってたじゃん」 それは違う─────。 言いたいけど声が出ない。 透は席を立ってクラスメイトの前に無言で立った。身長差が頭一つある。 クラスメイトの男子が後ずさった。透は右手に自分の牛乳パックを掴んでいる。だまったままクラスメイトの頭の上で牛乳パックを潰した。ブチャッと音がしてクラスメイトの頭を白く汚した。 「うわぁぁ」 マヌケな声を出してクラスメイトはその場を離れた。 「洗いに行こ。牛乳は臭くなるから」 透が言った。 春樹が返事が出来ないでいると手首を掴まれた。 頭を水道の水で洗い流した。 「僕の事、弱いと思ったやろ……やり返したり言い返したりせんけん…」 「そんな事思ってないよ………水野は何も悪い事してないだろ…………」 「やられっぱなしでかっこ悪いやろ?」 「やり返すのが強さじゃないってお父さんが言ってた……水野は水野のやり方があると思う」 そんな風に弁護され恥ずかしくなって春樹はうつむいた。 「でも嫌な事は嫌って言ってといいと思ってた」 透になら話してもいいと思った。 「言葉が違うけん、言葉バレるの嫌で話さんかった……」 「変じゃないよ……どこから来たの?」 「福岡県………」 「あぁ………俺のばあちゃんいるとこだ」 透が笑った。 「唐人町って所にいるんだ……」 「えっ知っとる……そこ僕のいた所の近くやん」 春樹は嬉しくなって自然に喋りたくなった。 「水野は家はどこ?」 「川沿いの都営のマンション」 「えっ俺もだよ……一緒に帰ろう」 声を出して話すと心が軽くなっていく。 それから帰りは一緒に帰ってどちらかの家で宿題をしておやつを食べるようになった。しかも同じマンションの7階と12階で、エレベーターですぐにお互いの家を行き来できた。透の母親と春樹の母親が仲良くなり付き合いは家族ぐるみになった。お互いに一人っ子で兄弟が出来たみたいだと両親達は喜んだ。あんなに辛かった給食も透と友達になって少しづつ食べられるようになった。 クラスメイトに「もう嫌がらせはやめて」と自分から言いに行った。 それから「僕も始めに話かけてくれたのにちゃんと返事せんでごめん」と自分の言葉で謝った。言葉が違う事を笑ったりされることはなかった。 2人は中学生になり体格差がこれまで以上に顕著になった。第二次成長期をむかえた透は身長が伸び、細った体は筋肉の鎧を付け始めた。透は成績も良かった。小学生の頃は足が早いお調子者がもてていた。無口な透はさほど目立たなかったがイケメン化した透は女子からモテるようになった。無口なのもクールだと言われるようになった。積極的な女子からのアプローチを透は嫌がった。中学二年生の時、このままだと春樹は透と同じ高校には行けない事に気がついた。1年生の時は2年後の入試など頭をかすめもしなかった。透はこの校区で1番偏差値の高い高校に余裕で入学出来るだろう。春樹の今の成績では可能性はゼロだ。絶対に透と離れたくない。春樹は焦った。親に頼んで透と同じ塾に通わせてもらった。透と離れたくない気持ちが春樹を勉強に駆り立てた。透がバスケ部で汗を流している間に春樹は塾の自習室で勉強するようになった。暇さえあれば、英単語を覚えたり数学の問題集を広げた。入試の過去問を解いて分からない所は学校でも塾でも何度も聞いて頭に詰め込んだ。何が分からないのかも分からない状態だったのに自分の苦手な所が分かるようになってきた。苦手な数学を徹底的に潰しながら疲れたら得意な暗記問題を覚えた。食事中も入浴中も勉強1色で過ごした。3年生に上がる頃にはギリギリ透と同じ学校の射程圏内に入るようになった。 そして同じ高校に入学した。
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