コトノハの民

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コトノハの民

大陸の南側にある港町は、いつも活気に満ちていた。海には商船が並び、陸には市が立つ。 そこへ―― 「馬が暴れてるぞ!」 「逃げろー!」 人々の叫び声と悲鳴、そして馬のいななきが響き渡った。 市で物色していた商人イシャンの耳にも、それは届いた。逃げろ、という叫び声と、露店の品や木箱が蹴散らされる音が迫り、やがて人々が散る中から一頭の馬が姿を現した。 馬はイシャンを横切り、外衣をまとった一人の女めがけて突進していく。 「あんた逃げろ! 馬が……!」 イシャンは怒鳴ったが、女は微塵も慌てた様子がなく、静かに振り向いた。 「早く逃げろ!」 イシャンの声が聞こえているのかいないのか、女は馬と対峙し、口元を覆っていた外衣に細い指をかけた。わずかに引き下げた外衣の下から、品の良い唇が現れる。 そして―― 女が、馬に向かって言葉を発した。 何を言っているかまでは聞こえない。 女が何かを言い終え、唇を閉じると同時に馬は失速。女の目の前へ馬がたどり着いたときには、カッポカッポとのどかに蹄を鳴らし、風圧だけが少し遅れて女を襲った。 外衣がふわりと風にあおられ、女の顔が日の下に晒される。品の良い唇に合った、整った顔立ち。イシャンの褐色とは違う色白の肌と、黒い髪――恐らく、東方の民。 女は馬の顔をなで、また何か言葉をかける。馬はカッポカッポと後ろを向き、尾を揺らして元来た道を歩き始めた。 飼い主であろう小太りの男が駆けてきて、肩で息をしながら馬の手綱を握り、あたりに頭を下げながら戻っていく。人々からは緊張が解け、市には再び活気が戻った。 「あんた、ちょっと待ってくれ!」 イシャンは去ろうとする女の肩に手をかけた。振り向いた女の目の色は、やはり東方の民によく見られる濃い茶。 「あんたさっき……あの馬に何をした?」 女は見つめ返すだけで答えない。 「あの馬に、何を言ったんだ?」 女の濃い茶の瞳が、かすかに揺らぐ。 「あんた東方の出だな? そうだ思い出した、東方には言葉を操る者たちがいるって。たしか――」 言い終わらないうちに女が踵を返す。 イシャンは女の腕をつかんで引きとめた。 「コトノハの民、か……」 女の強張るのが、イシャンの手を通して伝わった。 「――私はただの和の民です」 女は毅然として、しかしどこか緊張した様子で答えた。 「お、やっと口きいてくれたな。和でもコトノハでもどっちでもいい。あんたすげえな、驚いたよ。なあ、言葉にすればなんでも叶っちまうのか?」 女は答えない。 顔色が悪いようにも見える。 「俺はイシャン。あんたは――」 「名を言うつもりはありません」 冷たくあしらわれ、いささかムッとする。 「なんで。こっちは教えてやったのに」 「それはあなたが勝手にしたことでしょう」 それはそうなのだが。 「私の国では、自分の名をみだりに人へ教えたりしません」 「どうして」 女は答えず、自分の腕をつかむイシャンの手をにらんだ。 「離してください」 「答えるまで離さない」 「ならば――」 女の濃い茶の瞳が、すっとイシャンを見上げた。 「――イシャン」 びくっとイシャンの肩が上がる。 「――離しなさい、イシャン」 弾かれたように、イシャンは手を離した。 いや、離していた。 自分の意思が働く間もなく、反射的に。 なんだ? 今の…… まるで魂をわしづかみにされたようだ。 「わかったでしょう? 名を教えない理由」 「え……?」 汚れでも払うように、女はつかまれていた部分を指の甲で払った。 「――縛られるからよ」 「あっ、おい!」 イシャンの伸ばした手につかまることなく、女は外衣を翻して去っていった。 「随分と嫌われたもんだな」 そういえばコトノハの民は、その能力に目をつけられ、異国の強欲な者たちから生け捕りにされたという暗い歴史がある。 コトノハの民か、と尋ねたときから、女はどこか怯えているように見えた。 「……悪いことしちまったかな」   * 商人のイシャンは、いつも異国へ旅しては物の売り買いをしていた。今日は父親の店で店番をしつつ、先頃仕入れた物を棚に並べていた。 空を見上げ、今日は雲が多いな、などと確認して視線を戻すと、いつの間に来たのかさっきの和の女がイシャンの並べた物を凝視していた。 「……あんたバカか? のこのこ俺の前に現れやがって」 まさかまた会えるとは思わなかった。 しかし女はイシャンの声が聞こえないのか、凝視していた黒い鉄瓶に手を伸ばした。 「鉄器……」 それは()の国の都で買い取った物だった。 大陸の中心に位置する華は、東西の交易の中心地である。多種多様の人、物、文化が咲き乱れ、たまに行くにはおもしろい。 「――イシャン」 不意に女が名を呼んだ。 「なんだよ(こえ)ぇな」 と言いつつも、さっき名を呼ばれたときのような魂をつかまれる感じはない。 「あなた、これがわかるの?」 「なめんな。わかるから高い金出して手に入れたんだ。それは華の都で子供から買い取ったんだが、作り手は本物の釜師に違いない」 「本物ってことは……」 「和の国の、南部(なんぶ)っていう地域の釜師だろ。継ぐ者がいなくて廃れたって聞いてたが……。どうやらまだ途絶えてなかったようだな。この鉄器は作られてまだ日が浅い」 女は鉄瓶を見つめてうなずいた。 「私、南部の出なの。私の家にも、よく使いこまれた鉄器があった。まさか異国の地で同郷の物と出会えるなんて……。懐かしい……」 よっぽど心を奪われているのか、品の良い唇がうっすら開いている。 「……なあ。さっき、縛られるから名を教えないって言ってたけどさ。俺はコトノハの民じゃないから、縛る力なんかないと思うけど」 「そんなことはない。言葉はどの国の民も使う。言葉には力が宿る」 「宿るかねぇ」 「あなただって、誰かが結婚するときは祝福の言葉をかけて、縁起の悪い言葉は避けるでしょう? それは言葉に何か力を感じているからよ」 「……そうか。言葉に力がないと言うなら、呪いの言葉をかけられても気にならないわけか」 「和の民はそのことをよく知っているだけ。だからみだりに使わない。呪う言葉や忌み言葉は特に避ける。名も滅多に教えない」 「縛られるから……か」 それはさっき、身をもって知った。 「でも名を教えないで、どうやって呼び合うんだ?」 「(あざな)で呼び合う」 鉄器が彼女の心を開いてくれたのか、さっきと打って変わってよく喋る。今なら何を聞いても許されそうな気がする。 「なあ、あんたの名を教えてくれよ」 「嫌です」 それはだめなのか。 鉄器に勝る、おかたい女だ。 「あんたも商いをするのか? 華の物ならこの前仕入れたばかりだ。ああ、言っとくがその鉄器は安くできねぇぜ。これには和の職人の技と魂が込められてるからな」 「当たり前です。買いたたく気は毛頭ありません」 女は慈しむように鉄器をなでている。そうしたい気持ちはよくわかる。故郷の物ならなおさらだ。 「――ほれぼれするよな。和の物は質がいい。いいねぇ、妥協しない職人魂ってやつは。あんた、それ買うかい? 譲るなら値打ちのわかる者にと決めていたんだ。ここは船に近いから、多少重くても構わないだろ」 いえ、と応え、女は鉄器を棚に戻した。 「私はこれの良さを重々知っています。だから誰か他の者に、これの良さを伝えてくれませんか」 「ああ、わかった。ちゃんと使ってくれそうなやつを探すよ。鉄器は使ってこそだからな」 ありがとう、と言って女はイシャンと向き合った。 「イシャン」 「なんだ」 「――(さち)」 「あ?」 「私の名。幸というの」 「……え!? 何!?」 「何度も言わせないで。知りたかったんじゃないの?」 「えっ、あ……ああ! そうだ! 知りたかった! そうか幸というのか! そうか! え……(あざな)じゃなくて本名か?」 「そうよ」 「……なんで教える気になったんだ?」 幸はそれには答えなかった。 「まただんまりかよー。……あっ、そうだ! 幸、答えろ!」 幸を真似て命じてみるが、幸はあきれた顔でイシャンを見上げるだけだった。 「なんだよ、効かないじゃないか」 「言葉はみだりに使うものじゃないわ」 「やっぱり幸には何か特別な力があるから、言葉を操れるんだろ」 「いいえ、私たちに特別な力はない。ただ心を清く定めて、言葉を敬う気持ちを忘れないだけ」 「どうせ俺は雑念が多くて、言葉を敬う気持ちは少ないよ」 「そんなことより――」 幸はイシャンと正対し、まっすぐに目を見つめた。 「――イシャン」 「なんだ」 雲が流れ、日の光が差し込む。 「――あなたが、この鉄器を見つけてくれたことを、嬉しく思います」 女神か、と思うほど、幸は光の中で神々しく微笑んでいた。 「あなたは私の祖国の物、職人の良さをわかってくれた。とても、感謝しています。ありがとう」 幸が(こうべ)を垂れると、黒髪が(つや)やかに流れ落ちる。 「なんだよ急に。調子狂うな」 頭を上げた幸が、ふふっと笑う。 「国褒め、物褒め、人褒め、って言ってね。和の民が昔からやっていることよ」 「ふうん……。まあ、悪い気はしないけど」 今日一日で幸のいろんな表情を見せられ、少々戸惑う。 「じゃあ私はこれで」 「あー! こら待てって!」 あっさり去ろうとする幸の腕をつかむ。 「まだ何か?」 「幸!」 びくん、と幸の肩が上がり、目が見開いた。 光が差し込んだ濃い茶の瞳が美しい。 「幸、俺と一緒に旅をしよう!」 え、と幸が戸惑いの声をもらす。 「世界は広いぞ。一緒にいろんな国を見てみないか? そうだ、その鉄器を作った釜師を探す旅ってのもいいな!」 幸は目を見開いたまま、言葉を失っている。 「それに俺は、幸と出会って、和のことをもっと知りたくなった。しきたりとか、考え方とか、もっと知りたい! 教えてくれ!」 ガハハ、と笑うイシャンとは逆に、幸はふいっと目をそらしてうつむいた。 「なんだ、だめか? 俺、本気なんだけど」 「……だめなんて言ってないでしょう?」 幸はどこか熱っぽく息を吐き、しかめっ面でイシャンを見上げて言った。 「だから名を教えたくなかったのよ」
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