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3
結論から言えば、そう思って願った日常は長くは続かなかった。
一つ目の原因は、毎日帰りが遅い事から父親に不審に思い問い詰めてきた事。
これは遅かれ早かれいつかは来ると分かっていた事だ。
「良い身分だな。
あまり私を失望させるなと言った筈だが。
元々無能な頭をこの上遊び歩くとは。」
「別に遊び歩いてる訳じゃない。」
「ほう?なら何をしているんだ。」
「それは言えない。
でもその証拠に成績は前より上がったよ。」
「とは言えその程度だろう。」
「でも上がってるのは確かだよね。
お父さんは私が優秀であればそれで良いんでしょう?ならそうなるに至る手段がなんであれ構わないでしょ?」
「言うようになったじゃないか。
そんな態度が取れる程偉くなったのか?」
ここまで強気な態度でお父さんに接したのは確かに初めての事だった。
正直怖さはある。
でもここで譲ってしまえばまたいつもの日常に逆戻りだ。
そうなると今度こそ私は駄目かもしれない。やっと見いだした希望。
それがあるだけで、勉強だって今までより頑張れるようになった。
今なら大丈夫だ、もう戻りたくなんかない。
握りしめたてが汗ばみ、額からは冷や汗が伝う。
言うべき事は言った。
後はそこだけは譲らないと言う意思を態度と目で訴えるだけだ。
「お願いです、この子にも少しだけ自由な時間をあげてください。」
と、ここでそんなやりとりを横で見ていたお母さんがそう言って父の前で土下座したのだ。「ちょ…お母さん。」
「私にはあなたにそう呼んでもらえる資格はないわ…。
これまでそれらしい事は何一つしてあげられなかったもの…。」
言いながら顔を上げたお母さんの沈痛な面持ちに胸が痛む。
「そんな事ない!お母さんはいつも気にかけてくれてた!美味しいご飯だって作ってくれた!
いつもごめんねって、謝ってくれた。」
「私にはそれだけしか出来なかった。
頑張るあなたを応援する事も頑張ったあなたを褒めて頭を撫でてあげる事も、私には出来なかった。」
そう言われて何も言えなかった。
実際感謝はしてるし、悲観的になってほしくないと思う気持ちはある。
でも実際そうしてくれていたならどんなに良かっただろうとも思ってしまう。
結局母の中では実の娘を愛する気持ちよりも父を恐れる気持ちの方が強いのだ。
結局彼女は、父に脅されれば私よりも父の意思を尊重する。
本当の味方なんかじゃない。
一度悪い想像が始まると止まらない。
結局本当の意味で私の味方なんていないのかもしれない。
そう思っていた矢先に、脳裏に彼の姿が映る。七草浮葉。
彼だけは私の話を真剣に聞いてくれていた。
居場所がなかった私に、またいつでもおいでと言って唯一の居場所を与えてくれた。
そうして出来た居場所を、失いたくなかった。だからか本当の意味で味方じゃないと分かっていても、私はお母さんに対する不満を無理矢理にでも押し込んだ。
少なくとも今はちゃんと発言してくれてる。
多分同じく普段何も言わなかった私が反抗したのを見て乗せられただけだろうが。
「ふん、まぁ良い。
だがもう私を失望させてくれるなよ。」
吐き捨てるように父は部屋を出ていった。
言いたい事は言った、もう話す事も、話す意味すらないと言わんばかりに。
「凪…ごめんね…。良かったわね…。」
「うん…。」
ありがとうなんて言いたくなかった。
それから、私は度々彼の元に足を運ぶようになった。
勉強も家でやるよりはそこでした方が集中できたし、毎回してくれる花の話も興味深かった。
「ここに来てること、話せたんだね。」
「うん、まぁ具体的な内容は話してないけど、成績は良くなってるってのを材料に多少は自由な時間をもらえるようになったよ。」
「そっか、それは良い傾向だね。」
「まぁ条件付きってのは癪だけど前よりは全然マシかな。
前までは本当に勉強ばっかで学校と塾ぐらいしか家から出られてなかったし、家でも勉強ぐらいしかすることなかったし。」
「後は塾帰りにうちの花屋に立ち寄って、だっけ。」
「まぁそうだね…。
前まではそれぐらいしかなかったから。」
「嬉しいよ、とても。」
「うん。」
直接何かをしてくれるわけじゃない。
でも彼はそう言う私の変化とそれによる喜びを一緒になって喜んでくれる。
そんな存在がいる事が何より嬉しかった。
お父さんにとって、私が今までしてきた事は義務なのだろうだから当然だけどそれに対して感謝されたことなんて一度も無いし、褒められた事だって無い。
でも彼は違う。
私に対して嬉しいと言う言葉を言ってくれる。必要としてくれるし、時には褒めたり励ましたりもしてくれる。
それは確かに慣れてなかったから最初こそくすぐったさがあったものの、今はすごく心地良くて生まれて初めて心が満たされていく充実感のような物を感じている。
「花ってさ、良いよね。
咲いてるだけで皆に見てもらえるんだもん。」
「別に見られる為に咲いてる訳じゃないと思うけど。」
「いや…そうかもだけど…。
憧れてたんだ、多分。
私はどれだけ頑張っても誰にも見てもらえなかったし。」
「そうだったね。」
「でも別に誰でも振り返る花になりたかったとかじゃなくて例えばそこに普通に咲いてるクローバーくらいで良かった。
四つ葉になってたった一人の人に見つけてもらえるのを待つみたいな…。」
真面目に言ったつもりなのだが、彼は盛大に笑った。
「ははは、ロマンチックだね。」
「そ、そんなに笑わなくても良いじゃん!私だってた、たまにはそんな事考えたって良いでしょ!」
「いや…ごめんごめん、とても良いことだと思うよ。
クローバーの花言葉には私を思ってと言うのがある。
そして約束と言う言葉もね。
「もしかしたら君が言うようにクローバーも誰かに見つけられる事を待っているのかもしれない。
そして見つけてくれた人と約束を交わすんだ私を思って、ってね。」
「ぶはっ!」
「き、君だって人の事言えないじゃないか!?」
「お互い様ですよーだ。」
ひとしきり二人で笑った後帰る時間が近づく。この瞬間はやっぱり慣れない。
「これ、君にあげるよ。」
そんな私の様子を見て何を思ったのか、彼は少し考え込む表情をした後に、そう言って何かを差し出してくる。
それは彼がとても大事にしていた物だ。
大量に張られた付箋と使いこまれて所々にシミや折れ目もある植物辞典。
「えっと…。」
「いや、分かるよ、本当は新しくてもっと良い物プレゼントしたいと思ったけど!」
私が一瞬顔をしかめると察したように弁明してくる。
「あ、うん、それも思ったけど…。」
「そこは否定してくれない…。」
「でもさ、本当に良いの…?それ、多分すごく大事な物だよね?」
「あ、うん、うん…そうだね。」
拍子抜けした、と言う感じの微妙な表情が一瞬で真面目な物に変わる。
「形見なんだ、父さんからもらった物でこの付箋も父さんが。」
「え、え、ならなおさら何で?」
「君になら渡しても良いかなって思ったんだよ。」
「い、いやいや、そんな大事な物私なんかがもらえないよ。」
そう言って言いくるめようとすると、彼は一瞬考え込む仕草をする。
「じゃぁさ、こうしよう。
その図鑑は一度君に預ける。
これから君がそれを使って今よりもっと充実した毎日を送れるようになってそれが必要じゃ無くなったら返してくれれば良い。」
「え…でも…。」
「大丈夫だよ、今の君ならね。」
「うん…それなら…。」
渋々ではある物のそれを受け取る。
ペラリと何ページかめくってみるだけで見た事がある花や無い花がいくつもあった。
思わず目がその一ページ一ページに吸い込まれる。
「ははは、うちに帰ってゆっくり見たら良いよ。」
「あ、うん、ありがとう。
大切にするね。」
そう言って私は彼から受け取ったその図鑑を抱きしめる。
そうしていると、本当にこれからの毎日が幸せな物に変わっていくような気がした。
でも実際それがただの勘違いでしかなかった事に私が気付くまで、そう時間はかからなかった。
図鑑を受け取った次の日から、彼は河川敷に姿を現さなくなったのだ。
それでもしばらく私は何度も同じ場所に通った。
今日は来てるかな、もし来ていたら何を話そうか、なんて考えながら一人河川敷でその時を待つ。
でも彼はいつまでたっても現れなかった。
「あいつはもう、ここには来ないのかな…?」
日に日に増していく不安と焦り。
そして今まで感じる事の無かった。
いや…感じている余裕も無かった寂しさ。これまで私は、当たり前のように人付き合いを避けてきた。
いや、これだって正確に言えば避けざるを得なかったと言うべきか。
とにかくそんな毎日だったからこそ誰に嫌われたって別に良い、一人で居ることだって普通の事なんだと思って生きてきた。
なのに、なんでこんなにも悲しいのだろう。
苦しいのだろう。
誰に嫌われても良いと思っていた筈の私が嫌われたくないと思ってしまうなんて。
こんなにも苦しい物なのか。
最近の自分の変化は良い物だと思っていた。
でもただ良い事なんかじゃなかった。
こんな痛み知らない方が良かった。
そしてそんな日が続いたせいで、私の中に生まれた空白は私に全てのやる気を無くさせた。元々決められた毎日でしか埋めてなかった穴だ。
一度広がってしまえば当然そんな物で収まる筈が無い。
家に帰っても何も出来ず、食事さえもまともに取れなかった。
そのまま眠る気にもなれず彼から預かった図鑑を開く。
「なんで…こんな事になったのかなぁ…。」
そして、その本もその翌日には変わり果てた姿でゴミ箱に捨てられていた。
「なっ…なっ…。」
あまりの事に私は上手く言葉を発する事さえ出来なくなっていた。
「あまり私を失望させるなと言った筈だが?」
そう言って父親はしゃがみ込んで固まっていた私を見下ろす。
全くただの出来損ないならまだ良かった。
やはり貴様に自由な時間を与えたのが間違いだった。」
言い返す言葉なんて無かった。
実際私だってこんな痛みなんて知りたくなかったと思ってしまったのだから。
「そうすればそんな府抜けたザマを晒す事も無かった。
それに本来の目的を忘れて府抜けた理想を掲げようとする事も無かったんだ。
「っ……!」
悔しさから唇を噛み締める。
そうしながら言い返す言葉を探すも何も見当たらない事もその悔しさの理由の一つだった。
「お前はどこまで馬鹿なんだ。」
その容赦ない言葉が私の胸に強く刺さった。「な…何で?」
「何で、だと?お前にそんな物は必要無い。ただ言われた通りにしていれば良かったのだ。お前にはそれ以外必要無い。
そんなことも分からないのか。」
違う、そうじゃない。
私が聞きたかったのは多分そうじゃない。
「なんで私は…あんたなんかの娘なの。」
自分でも驚くほどに、それは自然と口に出ていた。
「何?」
「私はあんたなんて一度だって父親だなんて思った事はなかった。」
「ちょ、凪?」
これにはさっきまで何も言えずただビクビクしているだけだった母親が口を挟む。
「ごめんね、でもお母さん、私はあなたの事もちゃんと母親だと思えていなかったんだと思う。」
「な、凪…。」
その事ばをを聞いてすぐ、泣きながら彼女は頽れる。
こんな事本当は言いたくなかった。
でももう限界だった。
自分の中で、もう何もかもが壊れてしまっていたのだ。
いや、ひょっとしたらもう最初から壊れていたのかもしれない。
力なく立ち上がり、今なおゴミを見るような目を向ける父親だった物の横を通り過ぎる。
「どこに行くつもりだ。」
「知らない。」
行く場所なんてどこにもある筈なかった。
居場所なんて最初からある筈がなかった。
それなら、最初からそれが決まっていたのなら。
どうして私は生まれてきてしまったのだろう。消えたい、消えてしまいたい。
そうして私は夜の闇に包まれながら橋の真ん中に立ち止まる。
そこからいつも来ていた河川敷を見下ろす。
橋の上にはある街灯も、当然下には無く、
何も見えないほどくらいその場所にはそもそも最初から何も無かったのだとさえ思わせた。もう、良いよね。
その言葉と同時に力が抜ける。
いかにこれまで自分が意味の分からない人生を守るために力を入れていたのかを思い知って途端に馬鹿馬鹿しくなる。
結局私自身を一番馬鹿にしていたのは私自身だったと言う事か。
そう思ったのを、最後に私の記憶は途絶えた。
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