最期の口づけ

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 崩れかけた廃屋。かつては何か食料品関係の店だったようで、だだっ広いフロアの端には業務用冷蔵庫が置かれていた。まさかと思ったが、コンセントをつなぐと、冷蔵庫は稼働した。そのとき私は狂喜した。  好きだった。私は、あなたを。  でも、私はあなたへの私怨に駆られてあなたを手にかけたのではない。それは「正義」のためだった。  私は刺客。そして現政権のチョン将軍に忠誠を誓っている。要するに、政敵や反対派の連中を始末するために、私は非合法のうちに育てられた存在。  でも、表向きは私も「普通」の大学生だった。怪しまれないように「普通」の「戸籍」を偽造して。そして、偽りの「学生生活」を送るうちに、初めて恋をした。ソンウという、「SF研究会」の学生に。  実はSF研究会とは偽装であり、本当は軍事クーデターで成立したチョン政権に反対する学生たちのグループだった。そのことをかぎつけたKCIAの依頼を受けて、私はそのサークルに潜入したのだ。  SF研究会では、SF映画の合間に、現政権の横暴な政策や反対派への弾圧を訴える映像を巧みに紛れ込ませていた。私はそれを観て、当初は激しい怒りを滾らせていた。もちろん、そこにいる学生たちに対して……。しかし、そのあと、ある学生が、静かに話し始めた。それがソンウだった。 「僕たちには、自由にものを言い、行動する権利がある。たとえ政権がそれを認めないとしても。いや、そうであるならば、闘うべきなんだ」。  彼の真っ直ぐな瞳は、私がこれまで、見たことのないものだった。私は初めて、自分の胸が騒ぐのを感じた。自分でおかしいと思いながらも、その思いは止むことがなかった。まるで私の体の中で、鳥が羽を広げ羽ばたこうともがいているかのように。  けれど、そのときが来た。私はソンウの活動を手伝いするまでになっていたが、秘密の会合のなかで、ソンウが反政府デモの決起を呼び掛けたのだ。その計画は、練りに練られ、ソンウとその仲間は細心の注意を払い、味方の犠牲が出ないように、かつ効果的に人々に訴えかけることができるように企図されていることがひしひしと伝わってきた。私はその提案に真っ先に賛成した。そして、会合の場所を去ってすぐに、その計画をKCIAの連絡員に伝えた。私に下された命令は、ソンウの暗殺。  厚い雲が垂れ込めて、いつもの灰色の街がより一層重苦しかった。私は、「大事な話」を口実にソンウをこの廃屋に呼び出した。ソンウの顔は緊張していた。そして、微塵も私を疑っていなかった。  私が「大事な話っていうのは……」と彼に近づくのを、彼は無警戒に迎えた。いや、警戒は廃屋の外の雑踏の音の方にむしろ向けられていたといっていい。  私は黙って、ソンウの心臓に一刺し、正確に刃物を突き通していた。彼は、私を凝視しながら、ものも言わずにこと切れた。彼の生きざまも思想も、理想に満ちた高潔な魂も、一瞬にして消滅したのだ。  足元で血を流すソンウの遺体を、私は呆然と見下ろしていた。普段なら、こっそり闇に葬ることもできる。でも、私にはそれはためらわれた。彼が生きていた事実まで抹殺してしまうのは、どうしても胸が苦しくて、できない。そのとき、片隅の業務用冷蔵庫に目がいった。電源が入ったとき、私は狂喜した。そして、彼をその中に寝かせるように入れた。  私はもうそのとき、覚悟していた。すでに私の飼い主は、このことに気づいているに違いない。私は廃屋の中で日々を過ごすようになっていた。やがて、私とは別のKCIAの刺客たちが訪れた。その気配を察した私は、その刺客と全力で闘い、そして敗れた。もともと、一人で彼らに勝てるとは思っていなかった。  でも、私は最後に言い残してやった。 「もう遅い。私はすべてをさっきネット上にばらまいてやった。世界中にもう拡散している。チョン将軍のすべての所業と一緒に」  彼らは、無表情に倒れた私を見下ろし、そして外に出て行った。私は、最大の「裏切り者」にして、「正義の罠」を張ったのだ。私の死は、私のばらまいた情報に多少なりとも信ぴょう性を持たせるに違いない。後は、ソンウのかけがえのない仲間だった人たちが、きっと引き継いでくれる。私は最後に、冷蔵庫に近づき、力を振り絞ってふたを開け、そこに眠るソンウの唇に接吻をした。
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