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いつも通り、お昼頃にお菓子教室を出て、男との時間を過ごしてから、陽太が帰る前に家に着く。
ーーそのはずだったのに、家には夫と陽太の姿があった。
どうして? そう訊く前に、
「どこ行ってたんだ?」夫の声が響く。
「お菓子教室。どうしたの?」
「陽太が熱を出したって学校から会社に連絡があった。お前の携帯にも何度も掛けた。なにしてたんだ」
慌てて携帯電話を確認する。画面は学校と夫からの着信履歴で埋まっていた。
「ごめん。全然携帯見てなかった。陽太は大丈夫なの?」
「病院行って、いま部屋で寝てるよ。ただの風邪だろうって」
「そう」
深く溜息をつく。
「あと頼んでいいか? 会社戻るから」
「うん。ありがとう」
「なあ、お前最近、変だぞ? 陽太のことちゃんと見てるか?」
この人は何を言ってるのだろう。
少しの間、携帯電話を見なかっただけで、そんなことを言われる筋合いはない。
陽太をここまで育てたのは誰だと思っているのか。
「見てるわよ。昨日だってなんともなかったし、今日も朝、元気そうだったもの」
「それならいいけど。今日はなるべく早く帰るから。陽太の大好きなお萩買ってくるよ」
夫はそう言い残して玄関に向かう。
「お萩? 陽太、お萩なんて食べるかしら?」
「何言ってんだ? 陽太の大好物だろ」
踵を返して夫が訝しげな表情でこちらを伺った。
「あなたこそ何言ってるの? 陽太はクッキーが好きなのよ? 私が作ったバタークッキー美味しいっていつも喜ぶんだから」
この人は本当に何も知らないのね。そう思っていると夫から意外な言葉が返ってきた。
「陽太、クッキー好きじゃないぞ? 和菓子派だって言ってたし」
まるで自分の方が陽太の事を知っているような物言いに腹が立った。
「そんなはずないわよ。もうあなたはなにも知らないんだから、早く会社戻って」
夫にそう捲し立てて、陽太が眠る部屋に向かう。
「ごめんね、起こしちゃった?」
ベッドに横になった陽太が顔だけをこちらに向ける。
「ママおかえり」
いつもは、ただいまなのに、おかえりと陽太に言わせてしまったことが情けなかった。
「ごめんね。迎えに行ってあげられなくて。でもそのかわり陽太の好きなクッキー作ってきたから元気になったら食べようね」
「うん」
辛いはずなのに、無理矢理に作った陽太の笑顔に救われた。
「ねえ陽太。もしかして、クッキーほんとは好きじゃないの?」
陽太の笑顔が一瞬だけ曇ったように見えた。
「ごめんなさい。ぼく、ほんとはクッキー好きじゃない」
そんな……。これまで何度も美味しいと言って食べていたのは全部嘘だったの?
「謝らなくていいの。でもどうしてそんな嘘ついてたの?」
「クッキーは好きじゃないけど、僕がクッキー美味しいって言うとママが喜んでくれるから……」
一息に言葉を吐き出して、苦しそうに咳き込む陽太を見て心が痛んだ。
「……喜んでるママが好き」
陽太はそう言って、満面の笑みをこちらに見せる。
その笑顔とは反対に私は泣き崩れてしまった。
「ママごめんなさい。隠しててごめんなさい。 泣かないで?」
違うの。
謝らないといけないのはママの方なの。
ごめんなさい。
陽太のことちゃんと見れてなかった。ごめんね……。
溢れ出る後悔の念はいつまでも声にはならなかった。
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