バタークッキー

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平日の昼下がり、小学校に通う息子の帰りを待ちながら、リビングでクッキーを焼く。 息子の陽太が大好きなバタークッキー。 バターの風味を逃さぬように、混ぜ過ぎないのがコツなのだと、お菓子教室の先生に聞いた。 混ぜ過ぎない、生地を触り過ぎない。 ーークッキー作りはね、夫婦生活と一緒よ。 干渉し過ぎないのが一番なんだから。 そう言って、私たち主婦の笑いを取っていたことを思い出した。 バターの優しい香りが鼻腔を撫でたのとほとんど同じ時、玄関の方からドアが開く音が聞こえた。 陽太がただいまー、と元気よく帰ってくる。 廊下からドタドタという足音を響かせて、リビングへと続く扉が開く。 陽太は私の姿を認めると、ただいまー、ともう一度大きな声で言った。 私は出来るだけ優しい声で、おかえりなさい、と言った後、お皿に並べたクッキーを見せる。 とびきりの笑顔をこちらに向けて、近づいて来る。 私は嬉しくなるけれど、母親としての教育を優先させた。 「陽太、先にすることあるでしょう?」 バツの悪い顔を見せながら、「手洗いうがい」そう言い残して、洗面所へと向かった。 「いい匂いー」 陽太がそう言いながら、再びリビングへと足を踏み入れる。 テーブルの上に並べたクッキーを見て目を輝かせる。陽太はバタークッキーが大好きなのだ。 「食べていい?」 椅子に座ると、待てないといった様子でこちらにお伺い立てる。 「どうぞ」 言いながら、オレンジジュースを入れてやる。 「美味しいー! やっぱりママの作ったクッキー大好き」 この言葉を聞くだけで、焼いた甲斐があったというものだ。もともと好きだったお菓子作りだが、陽太のためならより一層頑張れる。 「あんまり食べるとご飯食べられなくなるよ」 そう言いつつ、全部食べて欲しいとも思ってしまう。 この瞬間だけが、私の唯一の幸せなのかもしれない。 こんな風に、穏やかで爽やかな日常が私が結婚前に描いていた理想。 描いた理想がほぼ完璧に実現している今、私を包むのはなぜか、暖かい幸せではなく、生温い退屈だった。 母親としての充実と、女としての現実とのバランスがうまく取れていなかったのかもしれない。 落ち着いた心電図みたいな、生活の中で、息が止まるまで暮らしていく事にほんの少しだけ不安が入り込んだ。 細い細い隙間にほんの少しだけ入った不安が、隙間を大きな穴に変化させるのにそう時間は掛からなかった。
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