バタークッキー

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夫が悪いわけではない。陽太が産まれてから、私自身が、夫を男としてではなく、父親として見るようになってしまったのかもしれない。 もちろん陽太の父親としては申し分ない。 経済面だけでなく、生活面でも、私が趣味のお菓子作りに精を出すだけの余裕も与えてくれている。 陽太が小学校に上がる頃、お菓子教室に通い始めた。 そこで知り合った男との時間は、家で流れる穏やかで退屈なそれとはまるで違った。 男は最低だった。 お菓子教室に通った理由は、人妻と出会えるからだと、何度目かの身体を重ねた後、冗談交じりに言った。 事実、私と会ってから、男は教室に現れなかった。 独身の女を不倫相手に選ぶのはバカのやることだと、面倒なだけでメリットがないとも言った。 その点、人妻は割り切った関係を築けるからいいのだと。 最低な男だと思ったけれど、私にも似た考えが頭を過った事も事実だった。 退屈しのぎ。夫婦関係を守るためのツールだというのが私の中の言い訳だった。 だからこそ、この最低な男と身体を重ねる事に罪悪感が薄いのだとも思った。 とはいえ、私を抱くときは優しいし、時々愚痴も聞いてくれる。 いつだったか、怖いものの話になったことがあった。どんな流れでそうなったのか、急にだったかは覚えていないけれど。 「アキ」が怖いと言った。 私は秋の事かと思ってどういうことだろうと聞いていると、どうやら飽きるの「飽き」だったようだ。 「俺さ、君にいうのもおかしな話なんだけど、妻の事愛してるんだよ」 本当におかしな話だった。不倫相手の前でさらに裸で言う事ではないだろう、と内心なじったがそのまま流した。 「でも、いずれ必ず飽きがきて、好きじゃなくなってしまうだろ?」 男は当たり前のように呟いた。 私はそれには答えず、背中を向けた。 それでも男は構わず続ける。 「だから、少しでもその飽きが来るのを遅らせたいんだ。幸せが長く続くようにさ」 私はまた男を最低だと思った。 けれど、どうしようもなく可哀想にも思えた。 男は男なりに、奥さんの事を、自分の事を深く考えているのだ。 出した答えがどうであれ、幸せになろうとする努力を否定することはできなかった。 「ごめん。変な話しちゃったね」 男は照れ臭そうに頭を掻いた後、薬指の鈍い光をしばらく眺めていた。 会う時は二人とも、左手の薬指に光る指輪は外さなかった。 これは遊びなのだ、ということを互いに認識させているようだ。 いつでも離れられる薄っぺらさが、私達を強く結んで離さなかった。
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