今日もあいつは私を見ない

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私には好きな人がいる。   どうにも筆が進まずにぼんやりと描きかけの絵を眺めていると、机の上のスマートフォンが震える。それに視線だけ向けた。 『今日、会える?』 とだけ書かれた簡単なメッセージ。 単純なもので私の胸はドキリと高鳴る。どうせ何も手に付かないのだ。今日は潔く諦めて課題は明日から頑張れば良いのだ。言い訳を並べ、画材で散らかった机の上をそそくさと片付ける。   返事はまだ返さない。   待っていたと思われたら、きっともう私は呼ばれない。本気だと思われたら、別れを切り出される。愛されていなくても、メッセージがくれば嬉しいし、会いたいと言われれば期待もする。傍にいられるのならこのままで良い。   早る気持ちを押し殺してトイレに駆け込む。鏡に映る顔はだらしなく緩んでいた。これではいけない。 目を閉じて息を大きく吸う。浮かれた気持ちが、考えが呼吸と共に吐き出されていく。何度も、何度も深呼吸を繰り返す内に段々と気持ちが落ち着いてくる。 鏡に映るのは冷めたような目をした女だ。これで良い。化粧はファンデーションを軽く塗り直すだけにする。リップも引き直そうと思ったが、やめた。 鏡の中の私の冷たい視線が刺さる。そんな目で見ないで欲しい。自分でも無意味な時間を過ごしている自覚はあるのだ。私はスマートフォンを取り出すと返事をする。 『いいよ』   あいつはどうせ大学にいる。私の家から大学まで自転車で15分だ。有名かどうかよりも通学の簡単さを優先した結果だ。私が入学してから二年ほどかけて新しく立て直したばかりの大学キャンパスはガラス張りの建物ばかりになってしまった。 私はそれがどうにも居心地が悪くて仕方がない。綺麗で新しい教室は憧れるが、まるでガラス越しに誰かに監視されているみたいな気持ちになるからだ。 幸いなことに私もあいつも美術関係の学科だったからそんな新しい建物たちとは無関係だ。何故か美術系の講義は敷地の隅っこに位置する一番古い建物が割り当てられることが多かったのだ。 そもそも課題制作が主で学校に通うことが少ないことを考えるとそれも妥当かもしれない。   私は校門を抜けると銀杏並木が続いている道を真っすぐと歩いていく。この先の奥まった敷地に花壇に囲まれたベンチがあるのだ。そこがあいつのお気に入りの場所なのだ。 「あれ、早かったね?」   掛けられた声に私の心臓は不自然に跳ねる。思った通り、そこにあいつはいた。 「別に、近くにいたから……」   言い訳をするように私は、ぼそりと呟く。不自然ではなかっただろうか。私は下げていた視線をあいつに向ける。  視線が重なった。けれど、私には分かる。   あいつが見ているのは私ではない。私を通して違う人を見ている。私はそれが誰かも知っている。ここから誰を見ているのかも知っている。 遠くで話し声が聞こえる。 あいつの瞳がその声に合わせて、水面のように揺れる。 私はとっさにあいつの体にのしかかるようにキスをした。驚いたように見開かれた目が私を映す。  やっと私のことを見てくれた。そのことが私の心を満たしていく。   話し声が段々と近づいてくるのが分かる。私はあいつの耳の塞ぐように両手をそっと顔に添えた。私の下であいつが身じろぎをしたのが分かった。  何で、傷つくと分かっている恋をしているのだろう。 私にすればいいの。私なら傷つけたりしないのに。  そうしたら、そうすれば――。不毛な考えばかりが頭を支配する。なんで、私じゃダメなんだろう。 「痛いんだけど……」 その声に下を見やると、不満そうな表情が私を見上げていた。知らず知らずのうちに顔に添えていた手に力が入っていたらしい。 「あ、ごめん」 私は慌てて体を離した。あいつはおかしそうに笑うと、ゆっくりとベンチから立ち上がる。そして、私の方をゆっくりと振り返る。 「ありがとう」 あいつは確かにそう言った。ズルい人だと思った。 礼なんて言わないで欲しい。私だってあなたの痛みを利用している。 私もあいつも恋をしている。傷つくと分かっている恋をしている。 あいつが辛いというのなら、私はいつだって現実を隠してやる。辛いものから耳を塞いでやる。 「せっかくだから美味しいものでも食べに行かない?この間、良いお店見つけてさぁ」 何かを誤魔化すように早口でまくしたてるあいつの声を、私は聞き流す。 もう、私の方を見てくれていないのが分かったからだ。 それでも、私はあいつの側にいる。 苦しさで息がとまりそうになるのを隠しながら。
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