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三貴子の誕生。
闇が深ければ、そこに生まれる光は小さくてもより強い。
深すぎるゆえの想いは黄泉の国で全身にべたりとこびりつき、その長い黒髪にも絡み付いたままだった。
「早く……早く禊を……」
イザナギはその身に染み込んでいきそうな穢れを一刻も早く清めるために、清らかな泉にその身を浸した。衣服や身体についた泥は透き通る水に溶け広がり、すぐにその濁りは透明に吸い込まれるように見えなくなった。
禊はその身の穢れは目に見えて落としたが、それでも愛する妻の死後の姿は目に焼きつき、イザナギの心は水面に反射する光に気が付かないほどに閉ざされていた。
「私は永遠にこの心と共に生きるのか」
後悔、失望、哀しみ……眉間に皺を寄せ、イザナギは清らかな水で濡れた手で目を拭った。すると突然、閉じていた目が痛くなるほどの眩しさがイザナギを襲い、イザナギは手の平で顔を覆った後、瞬きをしながら両目を大きく見開いた。
「……なんだ……」
ごろっと目の辺りに違和感を感じ、視界が大きく潤みぼやけたと思うと、心を覆い尽くしていた重苦しい暗闇が目の前に放たれた光によって一瞬で消え失せた。
「何なんだ……」
イザナギの見開いた目の前に、幼い光放つ者たちが並んでいた。
まず第一の光は、左目から生まれた”アマテラス”という御名の御子神。
次に第二の光は、右目から生まれた”ツクヨミ”いう御名の御子神。
そして最後の光。両目の間から生まれた”スサノオ”いう御名の御子神。
「おお……これは一体……」
闇から戻りすぐに生まれた小さな光たちは、強い強い力を秘めていた。
「なんとも貴い子たちが生まれた」
イザナギは思い返した。黄泉の国で再会した妻の変わり果てた姿を見て逃げ出し、この世との境にある巨大な岩の向こうにその妻を封印した。追いかけてきた妻であるイザナミは、巨岩の向こうでこう叫んだ。これから毎日、千人の命を奪うと。
「イザナミはああ言い放ったが……」
でも再び出会えたからこそ、この光たちを生むことができたのでは。
イザナギはそう思うと、イザナミへの想いを昇華するように目の前の光たちを『三貴子』とした。
「私はもう思い残すことはない」
自分の中にある命をこの御子神たちに変えたのか、イザナギの肌は老いたもののように白くやつれたように見えた。だがその表情には安堵が見え、静かに言葉を続けた。
「お前たちに、この世を守り育てて欲しい」
アマテラスは天を照らすことを任された。ツクヨミも天を照らすことを任された。スサノオは天の下を任された。先に生まれた二柱は天に向かい、スサノオはそのまま地に残った。
天を見上げるスサノオの頭をポンポンと撫でたイザナミは、憔悴した身体を休めるために静かな場所にその身を移すことにした。
「……アマテラスの照らす光はきれいだな」
目の前の大海原を黄金に輝かせる昼の光にスサノオは憧れた。アマテラスの照らす天は、昼間の明るい時間の世界のものだった。
「ツクヨミの照らす光もきれいだな」
ツクヨミは暗い闇夜を照らす天の世界を担っていた。目の前の漆黒の大海原に映る光の道に、スサノオは憧れた。
「俺もあんな風に光を放つんだろうか」
スサノオは溢れる強い光を放つ、己の姿に憧れた。
ある日、太陽に雲が掛かり、いつもの光は届かなくなかった。
「そんな日もあるんだな。じゃあ今日は俺が光を放とう」
そう思ったスサノオは全身の力を込めて光を放とうとしたが、目の前の世界は何も変わらず、ただ曇天を映す灰色の海だけがそこにあった。
ある日、昨日まで細い刀のようになっていた月がとうとうその姿を隠し、星の瞬きはあるもののいつもの明るさがない夜が来た。
「そんな夜もあるんだな。今度こそ俺が光を放とう」
そう思ったスサノオは全身全霊の力を込めて光を放とうとしたが、星の瞬きだけが静かにある夜は変わる事なく、漆黒の闇だけが変わらずそこにあった。
「なんで俺は光を放てないんだ」
そう呟いたスサノオは森に生きていた。小鳥や小鹿は話し相手だった。ある日スサノオは、いつも近くの木に留まっている小鳥に訊いてみた。
「なあ、なんで俺は光を放てないんだ?」
「お母さんに聞いたら教えてくれるよ」
小鳥は木の枝から軽やかにそう答えた。
「お母さん?」
「だってお母さんは、僕に飛び方を教えてくれたもの!」
小鳥は弾む声でそう言うと、チョンチョンチョンと横に移動して、何とも軽やかにひらりと飛んで見せた。
「……へぇー」
「あ、お母さんだ。お母さーん!」
小鳥が遠くに向かってそう呼ぶと、母鳥が近くに飛んできた。
「じゃあね。スサノオノミコト!」
小鳥は母鳥の方に飛んで行ってしまった。
「そうか。あんな風に俺は飛べないもの。教えられたからあの鳥は、あんなに上手く飛べるのか」
スサノオは感心しつつ、小鳥が飛び去った方から吹いてくる風に黒髪を揺らした。
ある日、小鹿がやってきた。スサノオはまた訊いてみた。
「なあ、どうして俺は光を放てないんだ」
「お母さんに聞いたら教えてくれるよ」
小鹿もまた、スサノオを見ながらそう言った。
「……お母さん?」
「だってお母さんが僕に、崖の降り方を教えてくれたもの」
小鹿は得意げにそう言うと、その場でピョンピョンと回転しながらその身の軽さを見せつけた。
「……へぇー」
「あ、お母さんだ。お母さーん!」
小鹿が森の奥に向かってそう呼ぶと、母鹿がこちらに寄ってきた。
「じゃあね。スサノオノミコト!」
小鹿は母鹿の方に駆けて行ってしまった。スサノオは小鳥を見送った時と同じく、小鹿の向かった方から吹いてくる風の中に立っていた。
「お母さんって、何なんだ?」
スサノオは呟き、少しの間黙って考えた。そして小さな声を発してみた。
「お母さーん」
夕暮れになり、辺りは徐々に暗くなってきた。次は小鳥や小鹿の真似をして、少し大きな声を発してみた。
「お母さーん!」
それでもスサノオを包む世界は静かで美しいままで。ただポツンと、今まで通りにスサノオだけがそこにいた。
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